
数年前から良く耳にするようになった「推し活」。天邪鬼で猫舌な私は、流行りには乗らず、「あー、推し活ね、好きにやったらいいんじゃないの」くらいの低温度帯で、触れることなく傍観していた。
熱さや勢いのあるものが苦手で、大抵のことはスルー。ほとぼりが冷めてから、まぁ機会があれば試すこともあるでしょう、というスタンス。カヌレもシュトーレンも未体験の猫舌は、ちびちび舐めて確かめてからでないと、好みに合いそうと思えても食えぬタイプ。
突如として推し活が始まったのは、月経の最中だった。ただ寝ているしかない状態から、動き始めたくなる回復期に入る直前だった。無理は厳禁のこの時期は、最も症状が重く辛い。
珍しくYouTubeを徘徊していて出会ってしまった、推し。生物学上で言う男性で、若干20歳。むず痒いような青々しさを放っている。30本を超える動画を、浴びるように一気に観覧した。止められなかったし、止める気もなかった。自ら沼へと進んで行った。
推しは、不自然な助詞を選んで話す。試験であれば躊躇なく不正解を下されるであろう、その拙さも許せてしまう。その割には、幅広いジャンルの単語を知っているし、今流行りの言葉の使い方や使うシチュエーションを教えてくれる。
初めは空回り気味で、ぎこちなく笑う素朴な推しは、みるみる間に垢抜けていく。カッコつける様が、観ていてすごく恥ずかしい。かつては、観るに耐えない、ダサい、と切り捨てていた若々しい所作が、愛おしくてしょうがない。
僅か1年の間の変容ぶりが眩しくて、目を細めて繰り返し観てしまう。そのみずみずしさに、子宮が疼く。知らない歌も教えてくれるから、好まないニャンニャン系アイドルグループの曲すら、口ずさむ羽目になった。重症だ。
鍋でもヤカンでも、熱しやすけりゃ冷めやすいわけで、1週間も持てば良い方だと思った。2週間を超えたところで推しは、しばしの休憩に入った。休み明けの再会が、楽しみなようで怖い。離れていってしまうような感覚がある。離れていくのは、推しの存在なのか、私の気持ちなのかは分からない。
このしばしの休憩が、私の胸のトキメキを掻っ攫って行ってしまうような怖さは、若かりし頃の恋愛感情に似ている。過去に、彼が居なくなっては困るという不安や切なさを抱いた記憶はないけれど、私なんか居なくてもいいんだろうな、という自虐的な寂しさは嫌になる程感じていた。
この出会いの発端は、月経痛の重さが女性ホルモンの仕業だということに着目したことだった。月経前に「エストロゲン」と「プロゲステロン」(卵胞ホルモンと黄体ホルモン)が、急激に減少することで月経痛が起こると考えられている。
そうか、月経前に起こるエラーみたいなものかと思った私は、それなら代わりに別のホルモンを発生させたら、症状が緩和されるんじゃないかと安易に考えた。推しにキュンキュンするたびに、脳内麻薬と言われる「ドーパミン」が自然発生し、快楽と共に「エストロゲン」の分泌を促してくれるはずだ。
なんてことだ。天然由来の劇薬を生成してしまうなんて。こうして出会った推しの存在が、どこまで私の月経痛を緩和してくれるのか。憂鬱な次の月経を楽しみにさせる効果は、すでに立証は半分済んだものと言えよう。
ただ、刺激に弱くなった私には、その存在が眩しすぎる。想いを馳せる日々に、投下される爆弾のようなトキメキは、この10年感じていなかった疲労感をも生んだ。
ひとりの時間が長くなると、ひとりの気楽さが心地よくなる。1人でいても2人でいても変わらないのなら、1人でいい。2人でいるからこその、何かがなければ必要性を感じなくなり始めている。末期症状か。
数年お世話になったビオフェルミンからの、鞍替え先はワカモト成長薬。劇的な効果はなくとも、なんとなく辛くなってきた時に、微々たる力でなんとなく支えてくれる。「サプリメント的な立ち位置の誰か」を私は探しているのかもしれない。ティラミスな存在が、欲しいのかもしれない。
よって、私にティラミスを差し出されたなら、覚悟を決めていただきたい。メッセージは、陰に宿る。食うか食われるか。それは遊び、高尚な戯れと思っていただきたい。
「Tirami su」=「私を元気づけて」「私をハイにして」