2012.3.11

ailish
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あの日からもう1年経ったのか、という想いだ。午後2時46分、近所の寺院の鐘が鳴らされた。鎮魂の祈りの時間。私も静かに手を合わせる。何を想うべきか…自然と涙が出てきた。私は何も失っていない。家族も家も仕事も。被災者ではないのかもしれない。しかし悲しい。切ない。やりきれない。そんな感情が溢れ出すのである。

震災当日のことを鮮明に覚えている反面、それ以降の1~2か月のことをぼんやりとしか覚えていない。震災以降、私の海馬はおかしくなってしまったんじゃないか、と思うくらい「記憶する」という行為が苦手になってしまった。特に仕事において、そのことを痛感する。

2005年(平成17年)8月16日 宮城県沖で地震 :M 7.2

2011年(平成23年)3月 9日 三陸沖で地震 :M 7.3

3月11日 東日本大震災 :M9.0

3.11が起こるまでに私が体験した大地震の記録だ。1995年(平成 7年)1月17日に阪神淡路大震災(M 7.3)が発生したとき、私は大学受験で家族と離れ、一人仙台の祖母宅にいた為、被災はしていない。ただ、両親と妹は大阪府豊中市にて大震災に遭遇した。

宮城県沖地震は30年周期で必ずやってくる。宮城県内では誰もが「99%の確率で近年中に大地震が来る」という言葉を耳にしているはずだ。そしてその言葉は今も私たちに向けて警告され続けている。なぜなら東日本大震災は宮城県沖地震との関連はない、と発表されているからである。

まだ、来るかもしれない。

その思いが常に脳裏にこびりついて離れない。一度書き記したが、宮城県であの「3.11」を、マグニチュード9を体感した者として改めてあの時のことを思い出し、整理して書き記しておこうと思う。あくまで自分自身のために。そして私を心配して下さった方々への感謝をこめて。

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3月9日、確かお昼休みになる少し前だから11時45分前後だっただろうか。割と大きな地震があった。私は仕事中。仙台市中央部に位置するビルの4階にいて、体感震度は4程度だったと記憶している。地震直後も

「割と大きな地震だったね」

と事務所内で会話を交わした程度だった。午後の仕事も通常通りこなす。その日の夜、帰宅した私は母に「宮城県沖地震は必ず来ると言われている。備えは絶対に必要だからね」という話を何の気なしに、した。母も「そうだね」と答えた。1日おいて、3月11日の朝。薄曇りだった。朝ご飯を食べながら母に、「紅茶の本、昨日買ってんけど、読む?」と告げると「見たいなぁ」というので自室に本を取りに2階へ行った。その時、ついでにいつも開けっ放しにしている押入れ(上段に液晶テレビを置いている)の引き戸を「ばたん」と音が出るくらいきっちり閉めた。母に本を渡し出社の準備をして、家を出た。仕事場は既記の通り、仙台市中心部。市役所や県庁の近くにあるビルの4階。家からは歩いて45分程度。バスでも通えるが、まだまだマイカー通勤の多い仙台市内は交通渋滞が発生しやすく、時間が読みづらい。その為、朝の通勤時間にバス走行専用車線がある駅までJRを使い、そこからバスに乗って通勤していた。所要時間は約30分。我が家は仙台市青葉区内、仙台駅からはやや北西に位置する。つまり内陸側だ。山を削って造成された団地。海も見える高台にある。その日も普段通りの毎日。仕事、昼食に休憩、仕事。金曜日の午後、6階の会議室では管理職会議が行われており、業務デスクには比較的若い社員ばかりが残された。役職が一人もいないフロアは雑談が多く、普段よりは多少にぎやかな午後だった。私の席は事務所の入り口から近い、一番端の席。通路を挟んでコピー機とシュレッダーが置かれている。そんな私とコピー機の間を、缶コーヒーを買ってきたS君が横切ろうとしたその時だった。

緊急地震速報のアラームがあちこちの携帯電話から鳴り始めた。

皆、体を強張らせながら様子を伺う。

すると「ごごごごご・・・」という地鳴りが聞こえた。

これは大きい地震が来る、と思ったその瞬間、尋常じゃない大きな揺れに襲われた。例えるならば…空のテッシュ箱にハムスターを入れ、左右から揺らす。その時のハムスターの状態が私、とでも言えようか。

来た、ついに来た。宮城県沖地震だ。

2日前の地震は、予震だったのだ、と思った。揺れはどんどん大きくなる。S君はもちろん立っていられない。キャスター付きの椅子に座って仕事をしていた私は、足を踏ん張って動きを止めようと試みるものの、大きく左右に振られ続けた。コピー機が横から私にぶつかってきた。これはすごい。大地震だ。しかも長い。もう1分は経ったはずだ。椅子に座り続けているのも限界だった。周囲の観音開きに開く書棚は扉が全開、書類が散乱。棚を抑えようと近づく若手社員を「危ない!ダメ!」と誰かが制した。周囲の棚からありとあらゆるものが落下、散乱した。そして私は椅子から落ちるような形で携帯電話を手に、机の下に潜り込んだ。床に座り込む私の体は、それでもなお大きく左右に振られ続ける。震える手で携帯電話を見た。今なら繋がるかもしれない。時間的にマサムネの散歩に行くか行かないかの時間。母はまだ家にいるかもしれない。すぐに電話には出られなくても揺れがおさまるまで鳴らし続ければ、一言は話せるかもしれない。何を言おうか、火は使ってないね?ガラスは散乱してない?気を付けてね、私は大丈夫だからね、すぐ家に帰るからね……と室内の電気が消えた。同時に電話回線も切れた。停電だ。

ライフラインがひとつ死んだ。これは大変なことになった。携帯電話の電池は残り70%程度。iphoneが電池をよく食うので、外付けバッテリーをひとつ買ったばかりだった。もう一台のauの携帯電話もバッテリーを昨日フルにしておいた。おそらく2日は持つだろう……考えながら揺れがおさまらないことが不安でたまらなかった。少し前にニュージーランドで起きた地震。建物がエレベーターシャフトを残し崩れた映像が脳裏をよぎる。日本人の語学留学生が数名犠牲になったと報じていた。この建物はあとどれくらいの間、揺れに耐えられるだろうか。こんなに大きくて長い地震を想定して造られているのだろうか、いろんなことを考える時間があった。それほど揺れは長かったのだ。ようやく揺れがおさまった。私の感覚では少なくとも3分は震度6の揺れが続いていたと思う。ビルの4階だった為実際の気象庁との発表とは異なるかもしれないが、揺れは全体で5分程度続いたと感じた。電気が消え、暗い事務所。立ち上がるとめちゃくちゃな事務所がそこにあった。青ざめる社員たち。

「大丈夫?怪我はない?怪我してる人ー?」

誰かが声をかける。皆、無事だった。周囲を見渡し、色々片づけなければならないから今日はもう仕事にならないなぁと思った瞬間、また揺れた。余震だ。これもまた大きい。余震で震度4~5レベルだ。こんな日が当分続くのかもしれないとため息をつく。6階から役職者が全員でやってきた。

「片づけはいい、とりあえず暖かくして外に避難しよう」

そう指示が下り、コートを羽織りすぐにでも帰宅できるよう所持品を持って、階段を下りビルの外に出た。ビルの前は一方通行の細い道。ただ歩道は広く、皆で固まって

「怖かったね、大丈夫?家も多分めちゃくちゃだから土日は片づけで終わりそうだね」等と話しながらひっきりなしに襲う余震に恐怖を感じていた。目の前をランドセルを背負った児童が通り過ぎる。家に保護者はいるのだろうか?ふと考えた。近所の保育所から数名の幼児を連れた人がやってくる。皆で怖かった、無事でよかったと肩を寄せ合う。

「あれ見て!ライオンズマンションのラの線が落ちちゃって、フイオンズマンションになってるよー」

「携帯でテレビつけたら東京も停電でパニックらしい」

「震度いくつ!?7くらいかなぁ?」

「かぁちゃん無事だって。連絡とれたー」

「信号機、やっぱりついてないね。交通渋滞起きるよね」

「地下鉄止っただろうな。JRはもう今日はダメだな」

「あそこのローソン、もうやってないってさ。携帯の電池買っときたかったのに」

「震源どこかなー?やっぱ宮城県沖?」

皆で会話する。皆不安だからこそ、常に誰かと話していたいのだ。私はその時後輩のAちゃんに声をかけた。

「Aちゃん、震源どこかわかんないけどご実家、津波とか来ない?大丈夫??」

私はAちゃんのご実家が岩手県沿岸部であることを思い出したのだった。

「大丈夫です。うちは割と高台にあるんで」

とAちゃん。周囲にも若い女子社員が数名一緒にいた。

「そう、ならよかった。今日はJRも地下鉄も、動かないと思う。今から家まで歩いて帰れる距離じゃない人は無理に帰ろうとしないで、今日一晩誰かのおうちにお世話になって。泊まるところのない人はいる?うちは2人くらいまでなら大丈夫だと思うけど」と若い女性社員に向かって私が声をかけた。

すると皆、その言葉に耳を貸してくれた。ありがたかった。気になった住まいが遠い女子社員もAちゃんの家に泊まることになった。Aちゃんには「何か困ったことがあったら連絡して。よろしくね」と告げた。ただこのとき、沿岸部に家がある人の帰宅が危険であることに気が回らなかった。岩沼、名取、多賀城、塩釜。皆、家族の安否を確認したくて早く家に帰りたいと考えていたのだった。

「点呼は取らないんですか?」

と取締役に聞くと、

「みんないるから大丈夫でしょ」

とかなり適当な答えが返ってきた。だらだらとすぎる時間。私は苛立った。ひっきりなしに起こる余震。とりあえず解散・帰宅することになった。私は一度事務所に戻り、自分の机から落下したものとノートパソコンを引き出しの中にしまい、事務所を後にした。一人で歩いて帰るのは、正直心細かった。方角が同じ人と途中まで一緒に帰ることにした。大通りは信号機が停電で動いていないため、既に渋滞していた。手を挙げて、大通りの横断歩道を渡る。道沿いの建物からレンガが剥離し、落ちている。ブロック塀が倒壊している。空き地で体を寄せ合い、待機する保育園児たち。余震のたびにあちこちから響く「キャー」の声。一緒に帰ったのは私より一回り年上の事務の女性。途中のコンビニが営業していたのでちょっと並んでも2~3日分の食料や飲料水を持っておいた方がいい、と思い、誘って一緒に並んだ。そこでお茶、カップめん、菓子パン、温めて食べる肉じゃがと豚汁、おでんを購入することにした。レジに並ぶ。店員さんはひたすら淡々と業務をこなす。本震で落下した酒類が床に落ちたせいで、店内はアルコールのにおいが充満していた。床をふく店員、並ぶ客に籠を渡す店員、レジに並ぶ客同士、余震の度に体につかまり合う。私の腕を、知らない老婦人が握りしめた。

「ごめんなさいねぇ、怖くて」

と微笑む婦人。

「そうですね、怖いですよね。」

と返す私。店内には買占めをする者もなく、互いを思いやる、そんな空気があった。外に目をやると吹雪になっていた。空き地にいた子供たちのことを考え、なんて非情な雪だと思った。レジを済ますと、店員さんが

「お気をつけてお帰り下さい」

と声をかけてくれた。私は

「(こんな大変な時に)ありがとうございます」

と返し、店を後にした。一緒に並んだ人と別れ、家までの道を歩く。この時、4時30分くらいだった。

家に着いたのが大体5時。玄関で母とマサムネが迎えてくれた。私に体を寄せるマサムネ。

「あのね、オラね、怖かったの。ぐらぐら、怖かったの。」

とでも言うかのように。マサムネを抱きしめた。温かかった。マサムネと母は散歩中だったそうだ。一緒に散歩をしていたパピヨンを2匹連れた知人と歩いているとその知人の携帯がけたたましく鳴り出した。

「なんだろう?」

と知人が携帯電話を取り出した瞬間、地面が波打った、と母は言う。マサムネを抱きしめる。道路の真ん中で。震えるマサムネ。

「来たね、ついに来たね」

と飼い主同士、互いの犬を抱きしめながら道路に座り込んだという。母に買ってきたものを渡すと

「台所の皿が何枚か割れたけど、特に被害はないよ。水も止ってないし。とりあえずきれいな水をお風呂に溜めておいた。愛さん(私)の部屋が一番めちゃくちゃだと思う」と言うので、居間からラジオの音がするのを確認して2階の自室へ行った。観葉植物が転倒、土が床にちらばっていた。その上に机の棚から本、ミニコンポ、物入れの引き出しが全て空いて中味が落下していた。暗くなる前に片づけよう、と思い普段着に着替えた。停電している為、掃除機は使えなかった。母がちりとりと箒を持ってきてくれたので、土を掃いて、すべて片づけた。30分程で終わった。ろうそくとランプ(共に東京で一人暮らしの際にとIKEAで購入していた防災用具)を用意しておこうと、押入れの引き戸を開けた。と液晶テレビ(32インチ)が私に向かって倒れてきた。落ちないようにテレビを抑えた。テレビの後ろに置いていた本を入れた段ボールが原因だった。

もしあの日の朝、押入れの扉を閉めていなかったらテレビは画面側から床に落下し、液晶が漏れて壊れていただろう。どんな巡り合わせかと、思った。いつもしないことをして、それが吉となるとは。手にしたろうそくに火をつけ、ランプにセットしやがて来る夜の闇に備えた。1階に下りると母が

「反射式ストーブがあるから、お湯も沸かせるし。灯油もあと2缶あるよ。カセットコンロもあるし、多分2~3日は乗り切れると思う」

と言うので、

「余震が来た時にやかんを乗せているストーブは危険だからまー君(マサムネ)にはこっち(ストーブの方)に来ちゃダメって言ってね」

と答えた。

その日、電気が復旧することはないだろうと思った。ラジオからは荒浜で100程度の遺体が発見された、千葉のコンビナートが爆発し燃えている、漏れ出した船の重油に引火し、気仙沼湾内に火柱が上がっている、東京で多くの帰宅難民が出ているという情報が聞こえてきた。

この時、私は「大津波」の情報を全く知らなかった。7時くらいになって、買ってきたインスタント食品を食べ夕飯とした。マサムネのおやつやドッグフードはドライ・缶詰を合わせて1か月分程買ってあったので困ることはないだろうと思った。

8時くらいだろうか。階段の途中にある窓から眼下の街を見下ろした。近くの家からはろうそく・懐中電灯の明かりだけがぼんやりと光る。煌々と明かりがついている家はひとつも確認できなかった。遠くには真っ暗な闇が広がっていた。

その夜はラジオをつけたまま、こたつの中に湯たんぽを入れて私・マサムネ・母と川の字になって眠ることにした。マサムネは私たちを温めてくれた。ふわふわの白い毛が顔に触れるだけで、安心だった。

これが私の3.11だ。

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電気が復旧したのは3.13の午前1時くらい。テレビをつけることができたのはつまり、3月13日の午前1時以降ということになる。私は翌日、仕事に行かなければならないと思いテレビを見ずに眠りについた。しかし母は、見てしまった。黒い津波が仙台平野を呑み込むその様を。目が離せなくなってしまった。離したところでどきどきして眠れなかったという。気仙沼が、石巻が、多賀城が、塩釜が、亘理が、名取が…仙台空港まで。。。宮城県はどうなるのか、涙が出たという。

私があの大津波の発生の現実を知ったのは3.14の朝だったのだ。自分の住む県内がどうなっているのか知らずに過ごした3日間だった。仙台港付近に勤務する従妹の消息も不明だった。テレビから流れる、津波に街が壊されてゆく映像。その様を目の当たりにし、泣き叫ぶ男性の声が響く。黒い悪魔のような波が宮城県沿岸部を破壊してゆく。自分の生まれ育った町が、一瞬で無くなってしまった。

本当に、何も、無くなってしまったのだ。

その映像を見た後で出社しなければならない虚しさ。

「私は今日、会社で何をするのだろう。

何のために出社するのだろうか。

それが一体何の意味を成すのだろうか。」

とさえ、思った。母がおにぎりとお茶を持たせてくれた。

とりあえず徒歩で会社に向かうべく家を出た。

会社についたとき、そこにいたのはやはり歩いて来られる距離に住む人たちだけだった。あるいは朝早くに家を出て自転車で来たという人。皆、仕事着ではない。そりゃそうだ。仕事なんかしてる場合じゃないのだ。自分の住む自治体に協力しなければならない立場の人も多数いた。

9時が近づくと事務所中の電話が鳴り響く。回線が繋がるかどうかも、その時は運次第だった。会社に行けませんと連絡してくる社員たち。そりゃそうだ。出社している場合でもなければ出社する術もないのだ。公共交通機関はすべて麻痺していた。その中で先日Aちゃんに何気なく聞いた

「ご実家大丈夫?」の一言。

再び、恐る恐る聞いた。

「まだ、父と連絡が取れていないんです。

ニュースを見ると家のあたりまで津波が来たって。」

と答えるAちゃん。

「ご実家、どこだっけ?」

「山田町です」

絶句した。岩手県山田町。テレビで見た。

大津波が襲った町だった。

やりきれなさを感じながら、鳴った電話を取った。新卒のS君だった。

「僕、閖上なんですけど家が流されて、なくなって。今家族で避難所にいます。すみません。今日は出社できません」

……涙が出た。

Aちゃんのご家族もS君のご家族も全員無事だった。15日だっただろうか、会社の事務所でAちゃんが震災後、避難所に設置された公衆電話からかけられたお父様からの電話を受けた時の

「父さん!!!」

の一言を聞いただけで、私は泣けて泣けてしょうがなかった。良かった、本当に良かったとさぞかし不安だったであろうAちゃんの心を思うと、また涙が出た。

同じ社員でも海沿いに住む人の被害は尋常じゃなかった。実家が女川・気仙沼の人もいる。それぞれが戦っていた。津波で家族を失った人もいる。家が流された人も。しかも私のこんなにそばにいるのだ。遠い世界のことじゃない。こんな身近なことなのだ。もう何がなんだかわからない。私は何故、ここにいるんだろうと会社のトイレで泣いた。涙腺もおかしくなっていた。

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今は思う。宮城県に住む私は、宮城県で生きてゆけなくなったら、それはそれで仕方がないのかもしれない、と。もし、福島の原子炉がチェルノブイリのように爆発したら、ということも考えていた。そうなったら宮城県どころじゃない。全関東在住民も避難しなければならない。400キロ圏内が全て立ち入り禁止区域になるのだから。そうなったとき、死ぬことよりむしろ生き残る方がずっと辛いことを知っているから。

私は今も普通に水道水を飲んでいる。浄水も何もしていない、水。宮城県黒川郡の母の実家で作られたひとめぼれを食べている。何の躊躇いもなく。

こうして自分の毎日を生きてゆく。宮城県仙台市の片隅で。

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北野武さんの名言を用いた言葉がある。

「2万人が死んだ地震が1回あったんじゃない。

1人が死んだ悲しい出来事が2万回あったんだ」。

3.11。

東北に、宮城県に起きたたくさんの悲しい出来事。このことを忘れずに生きてゆかなければならない。そして語らなければならない。その時、何を感じたのか。宮城県仙台市内で何が起き、どう考え、対処したのか。何があると良いのか、どう備えておくべきなのか。むしろ聞いてほしい。尋ねてほしい。答えられることは総てに答えたい。未だ沿岸部に行くことのできない私ごときが一体何を答えられるかと自嘲しながら、でも正直に感じたことを体験に基づき、精一杯答えさせて頂く所存だ。

私も、あなたも、地震列島・日本という我が国に今、こうして住んでいるから。