
ドストエフスキー『罪と罰』と、関連する本を数冊読んだ。なかでも森有正の『ドストエーフスキー覚書』が素晴らしかった。かなり長いが、以下に引用と感想をまとめる。
引用はすべて、ちくま文庫『ドストエーフスキー覚書』の「Ⅶ ドストエーフスキーの『罪と罰』について」より。引用前の番号とタイトルは、まとめやすいように私が付記したものです。
1.ドストエフスキーの現実把握と罪の本質について
かれ〔ドストエーフスキー〕において、愛、正義、罪、赦し等の倫理的観念は、単なる概念としてその作品構成の框となっているのではない。むしろその構成の力的中心をなすのであり、それは、作中人物の特殊な、相互の関係の仕方そのもののなかに顕れてくるのである[…]これらの関係は本質的に倫理的関係であるということができるが、[…]それはまったく言葉によって表現することのできない、特殊な状況における、人間現実そのものであり、相手の身体そのものによって全存在がこちらの全存在の在り方を圧倒的に規定する、関係そのもののうちに示される[…]それは多くの場合、その記憶心像のなかにその現実性を顕す。それは主体の思い設けない時に、突如として生じ、主体は爾後それを忘却することができないのみならず、主体の全存在を、その感覚、理性、意志、判断、のすべてを包み、規定し、それらを方向づける[…]罪悪の場合、この邂逅の現実性をなす実体そのものは主体の責任において生じた特定の人格の破壊なのである。このようにドストエーフスキーにおいては、罪悪は個々人の責任でありつつも、その主観的意識を超えた、一つの現実として、かかる意識に対しては絶対的に独立している客観的事実として、意識のなかに新しく、思い設けない時に生起し、爾後のあらゆる主観的意識を規定するのである。それは認識の事実ではなく、邂逅された現実であると言われなければならない[…]それは、神の意志に反したというような形式的な面のみをもってしては、解くことのできない現実面を具えている。それはむしろ、神の創造の意志に究極的に反する現実がそこに成立することである[…]罪の問題は、それを自己の問題として深刻悲痛の念をもって意識することが、まして神学的に厳密に規定することが重要なのではない[…]罪はわれわれの前に、われわれの責任の結果としてではあるが、現実としてあるものなのである。重要なのは、それを恢復することである。その恢復そのものは、完全に、われわれ自身の責任に属するとは言っても、本質的にわれわれの問題ではないのである。罪なる現実そのものの恢復が赦しそのものの中核を形成するのである。しかもそれがわれわれにとって絶望的であるところに罪の現実の特質がある[…]罪は神秘ではない。それは道徳的なものではない。それは最も客観的な意味における現実そのもの、われわれに赦しと恢復、その現実そのものの恢復を迫りつつ欲せしめざるをえない、絶対の現実なのである[…]この書はその結果において、希望をもたらすごとくみえながら絶望的である。それは罪を自覚しないラスコーリニコフをめぐりながら、その深き相をまざまざと展開し、しかも同時にそこに、すでに、赦しの現実が成立していることを教える。すべてはラスコーリニコフの意識の場を介して絶望的に展開される。しかもそれ故にこそ、赦しの希望が真の現実として、そこにあることを教えるのである。
倫理を抽象的な理念としてではなく、「人間と人間の関係そのもの」に現れる現実として捉えるということ。観念に憑かれたラスコーリニコフが、観念では解決できない現実と対峙して苦悶するなか、現実を生きるソーニャと出会い、その愛の在り方を知り、罪を認める可能性が兆す、これが『罪と罰』のあらすじだ。この小説を読むうえで大切なのは(そして森有正の覚書のもっとも特徴的だと思われるところは)、罪もその恢復も現実にしかありえない、現実にあるようにしか存在しえないという点をしっかり把握すること。そこから始めなければならない。理論や思想だけで理解しようとすると、大事なものが抜け落ちる。
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2.人間の自由確立の問題
ラスコーリニコフの心中にはこの不合理、本質的には社会的不合理に対する怒りが蓄積される。しかもこの場合かれにあっては、この怒りが個人的怨恨の形式をとって現れている点に注目しなければならない。ここにかれの意識の場と、社会的現実の場とがくいちがっていることが明示されている[…]かれはこの点、歪められた意識から出発して自己を伸ばしうるために必要な金、この社会的な一機能を入手するために、金を所有している価値なき特定の個人を排除してその金を奪うことを考える。かれはこの直接性に訴えることに着想した点において、社会的媒介関係としての人間現実を完全に無視した。しかしドストエーフスキーの偉大はこの錯誤と無視とをそれ自体一つの人間現実として定着したのである。
ラスコーリニコフその人の実存の中核的問題、[…]それは人間の自我の主体的自由確立の根源的要求である[…]ドストエーフスキーの偉大さはこの実存の問題を社会にも神にも転嫁しなかったことである。人間の人間としての実存、人間が神の道具でも白蟻でもないことの主体的事実の把握[…]『罪と罰』はその犯罪の前後を通じてこの主体性、人間の根源的自由確立に対するラスコーリニコフの死闘の記録であるということができる。しかもそこには人間の主体的自由に解消することのできない現実が人生には厳存することをも同時に開示しているのである。
最後の一文がもっとも重要だ。ラスコーリニコフの躓きの石はその点にあり、この現実の厳しさを観取することが『罪と罰』の価値の大きな部分を占めていると、森有正の覚書を読んで感じた。
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3.マルメラードフ一家との邂逅と、もう一つの現実
かれは殺人の前日居酒屋で偶然に退職官吏マルメラードフと邂逅する。ここにかれは、自己以外の、観念ではない現実の社会の一端と触れ合うのである。そこには自らになんの価値的な自負ももたない、単なる存在にすぎない人間の、集団がある。かれらこそは非常人に対する常人である。しかしかれはそこに異常な親愛を、かれ自らも真実にはそれであるところのものに対する親愛を、心から自然に、無理なしに感ずるのである。それは存在の一致ともいうべきものである[…]かれはこのソーニャのなかに新しい現実を、自己を他へ献げる現実を発見する[…]ラスコーリニコフがソーニャのなかに発見した現実は、社会的実践の対象としての現実ではなく、愛の現実、それを傷つけることが罪であるような現実であった。かれはソーニャとの交りのなかに喜びを発見する。この愛の現実はいちおうラスコーリニコフの自己閉鎖を破って、ラスコーリニコフは自己の罪をかの女に、また官憲に自白し、シベリアへの流刑に処せられる。けれども、このことはラスコーリニコフにおける実存への意志が抛棄されたのではないことはもちろんである。ラスコーリニコフは最後まで自分の罪を信じない[…]しかしかれの犯した罪の現実はそこにある。それはソーニャには実感されている。かれの執拗な実存は罪の現実がかれ自身を変化させることを頑強に拒否する。しかし他方かれはソーニャにおいて愛の現実に触れ、したがって罪そのものの意味を知っている。われわれはラスコーリニコフにおいて、近代的な人格概念の解体の顕著な一例を見るであろう。
「愛の現実、それを傷つけることが罪であるような現実」という表現について考えたい。のちに森有正は、愛について「他者の存在をそのままに受け入れ、それを生かそうとするもの」「愛と罪はいつでも結合している」と定義する。ソーニャの生きる現実、その悲惨な生活を支えているのが家族への愛であること、ラスコーリニコフがそのような愛を目の当たりにして心動かされるという点を、忘れてはならない。作中いつも陰鬱な彼が、マルメラードフ一家といるときは生き生きとしていて、私はそれがとても好きだ。作中でソーニャが言うとおり、二人がもっと早くに出会っていれば、と思わずにいられない。
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4.ラスコーリニコフとソーニャの対比
かかるラスコーリニコフに対して、マルメラードフをめぐる一つの現実の社会が示される。そこにはマルメラードフの性格の弱さに基づく貧困と罪悪の世界が示される[…]しかしこの現実の社会のなかには、行きどころのないやもめを自分で負おうとする愛が行われているのであった。ソーニャの父マルメラードフは本質においてかかる愛の人であった。ここにラスコーリニコフの実存とはまったく異る愛が示される[…]かくてドストエーフスキーは、ラスコーリニコフとマルメラードフとのふたつの世界を描きだし、そのなかに社会と実存と愛との本質的に異る三つの秩序を開示したのである。マルメラードフの生きていた現実の世界は、生きるということが裸形で問題となっている深刻な世界、生きるためには、また生かすためには、倫理さえも超越しなければならない世界であった。ソーニャは娼婦となった。ここにラスコーリニコフの観念における倫理超越と、ソーニャの現実における倫理超越との二つが対比される。そこには本質的な相達がある。ソーニャのそれは、愛の故に、倫理が深い悲しみと自己卑下とのうちに、超えられるのである。ラスコーリニコフのそれは、自己を立てる為に、自己に対する信頼と自負とのうちに、社会秩序が超えられるのである。それは、いずれもその限りにおいて、社会からの隔離、孤立を意味する。二人がやがて真に触れ合うのは、この共通の場面においてである。しかしそれは同時に最も激しい内面的闘争の場でもある。人間存在はそこにおいては、もはや、いかなる外面的な道徳の被覆なしに、存在そのものにおいて、接触し対立する。ラスコーリニコフとソーニャとの関係はそのようなものである。一方はあくまでも自己の内面に入りこみ、そこに立場を求めようとする。そこには他に対する本質的な無関心が支配する[…]今一方はあくまで他者との関係のなかに生きる。他の存在が自己に対して、自己の存在以上の意味を有するのである。しかしこのことは、それ自体においては無意味であり、倫理的意味を有しない。それは自己に対する他者の存在によって初めて倫理的意味を有してくるのである。
最後のところ、「それ自体は無意味」であり、「他者の存在によって初めて倫理的意味を有してくる」という解釈が、すごいなと思う。冒頭で、倫理的観念は「相互の関係の仕方そのもののなかに顕れてくる」と言われていたことだ。倫理は独りよがりの思想のうちにはない。他者との交わりの持つ深い意味は、次の節で開示される。
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5.愛とは何か
マルメラードフはソーニャに赦されている。二人の間には本質的に罪はない。それはもちろん悪である。それはしかし社会悪であって罪ではない。なんとなればマルメラードフは本質的に自己をたてようとはしないからである[…]愛は、ドストエーフスキーにおいて、純粋に、人間の人間に対する態度、根本的あり方のことである。それは実行とは本質的に別なことである。それは神に対する信仰と同一の本質を有するものである。それは必然的実践を伴う筈のものであろう。しかし実践がなくても愛は愛である。それは実践の重要性と意味を失わせるものではない。愛と実践とは本質的に次元を異にするのである。愛は価値概念ではない。それは存在のひとつの可能的な存在であって、それのもたらす価値によるのではない。愛は本質的に言って存在の存在性であるが、それは存在主体の性質的なものでは毫もない。それは他者の存在をそのままに受け入れ、それを生かそうとするもの、他者を自己の意欲に従わしめようとしてこれを破壊しないことである[…]この愛は形式倫理による批判を全面的に斥ける[…]愛とはドストエーフスキーにとって、主体に属するなんらかの意味の性質ではない。愛せらるべき相手がそこにいるということ、これが愛である[…]それをかかるものとして受けいれない時に、さらに逆に相手の存在に自己を強制しようとする時に、そこに罪が成立するのである。さらにつきつめて言えば、愛と罪はいつでも結合している。罪が罪として自覚される時、そこにはすでに愛が成立しているのである。
罪とは何か。森有正によれば、それは、他者を自己の意欲に従わしめようとしてこれを破壊すること、相手の存在に自己を強制しようとすることである。そして罰は、一般的に罪に対する報いのこと。老婆の殺害という社会的な罪を犯してラスコーリニコフは苦しむが、その苦しみは、自分の思想と現実のギャップからくる不安・絶望だ。人を殺したことに対する良心の呵責ではないから、最後まで彼は罪を自覚しない。そんなラスコーリニコフに対してソーニャは、「苦しみを受け、その苦しみによって自分をあがなう、それが必要なのです」と言う。ラスコーリニコフが負うべき罰は、エピローグでふれられている通り、愛を知ったときに初めて感じられる将来の「大きないさおし」である。ラスコーリニコフが復活するためには、罪を自覚して贖わなければならず、罪を自覚するには罪の意味を知らなければならず、罪の意味を知るには愛を知る必要がある。愛と罪は表裏一体であり、だから「自分が罪を犯した」と本当に自覚した瞬間に、すでに相手を「一人の存在」として受け入れる可能性=愛が生まれている。
「愛は価値概念ではない。それは存在のひとつの可能的な存在であって、それのもたらす価値によるのではない」ここも印象深い。自分自身、人間関係を価値の有無で決めることなどないけれど、他者を受け入れること、他者に受け入れられることについて実生活で考えてみたこともまたない。そんな私が『罪と罰』について語ってよいのかな、とふと思った。冒頭で、倫理を抽象的な理念ではなく現実として把握することの大切さを確認したにもかかわらず、私はそれを実践できていない。それでも『罪と罰』に対して感じるキツさや遣る瀬なさは本当だし、森有正を読んでなるほどと思ったことは書き残しておきたい。
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6.本当の実存
このように見てくると、社会的実践と実存とは価値を第一におき、その基準に従って自他を形成しようとする点で共通であり、実存と愛とは具体的個別的であり、社会の通念、その倫理的基準を超越する点で共通であり、実践と愛とは、自己のほかの他者を承認する点で共通である。これらはしかしいずれが上位を占めるかという問題ではなく、社会性と実存と愛とは人間存在そのものの本質的契機をなすものであり、人間はそのいずれを欠くこともできないのである。
ラスコーリニコフの殺人の合理的計画、それによる実存の決意の根底には、情念的なものが、本質的に受動的なものが潜んでいる[…]実存の根底にこのような、自己以上の力の働いていること[…]それは自己の自己に対する闘争であって、主体は自己に支配されるか、自己を支配するかと岐路に立つのであり、自己に支配されることは、他者を無にすることであり、自己を支配することは、自己を他者に向って積極的に開き、他者を生かすことを可能にすることである[…]かかる内的分裂における自己決定こそ、主体にとって優れた意味における実存であると言わなければならぬ[…]この優れた意味における実存は[…]つねに具体的な問題と相手とに即して成立するのである。されば実存は、実践と愛から次元的に区別されるものでありつつ、それが真に正しく決断される時、かならず実践もしくは信仰に人を進ましめるのである。
ラスコーリニコフにとっての実存とは、自由を確立すること=運命を自身の手で切り開けると証明することだった。そして彼はその問題を、他者を無にすることで解決しようとした。森有正はこの凶行を「受動的なもの」として分析するが、そうであれば余計に悲しい。後述のように「本質的に愛の人」である彼が、愛と真反対の行為に耐えられるわけがない。それはまったく「自由」ではない。この食い違いを最後まで自覚しないラスコーリニコフの頑なさもまた、悲しい。そしてだからこそ、彼から目が離せない。
ほんとうの実存とは、自分の存在の根底に潜む内的分裂、それを克服することだ、と森有正は言う。自分の在り方を自分で決める強さ。そしてその実存は、それが正しく決断される時、かならず実践もしくは信仰に人を進ましめるとも。すこし前の段落で「愛は、ドストエーフスキーにおいて、純粋に、人間の人間に対する態度、根本的あり方のことである。それは実行とは本質的に別なことである。それは神に対する信仰と同一の本質を有するものである。それは必然的実践を伴う筈のものであろう」と書かれていたことが、ここに繋がってくる。
ラスコーリニコフは殺人によって自己の実存を自己に対して確実にしたいと願ったのであるが、それは、かれを、かえって激しい不安と矛盾とに追いやった。それはかれが殺人によって、求むるものを、まったく誤った方向に、求めたからであった。それは真の実践と愛とによってのみ求むべきものをかれは自己の決意と実行とのなかに保証しようとしたからである。しかしかれは本質的に愛の人であった。他者との関係を基礎にしてそのうえにのみ生きうる人であった。それ故にかれはソーニャとの愛の交りのなかに、マルメラードフへの献身のなかに限りない平安を覚えたのである。しかしかれは自己の殺人、たとえそれが老婆の存在そのものに対する嫌悪に発するものだとしても、それのもつ実存的意義を自ら否定することはできなかった。かれは自己がアリョーナと全く同じしらみにすぎぬことを自覚するけれども、しかも、自己の罪悪の罪性を自覚しない。『罪と罰』の全篇をたどって見て、われわれは、ソーニャとの深い愛の交りも、ついにラスコーリニコフの実存の要求に克ちえなかったことを知る。ラスコーリニコフは、この殺人行為のうちに自己の実存への決意を秘めていたのである。それはほとんど愛に圧倒されそうになる。しかしかれの実存は倒れない。この『罪と罰』は、同時に、ラスコーリニコフの自覚の如何にかかわらず、そこに罪が現実に存在していることを明らかに示している[…]かれが、不断に不安に脅かされ、自己分裂に陥るのは、この実在する罪が、かれの自覚の有無にかかわらず、かれに働きかけているからである。かれはそれを、聖書を知り、イエス・キリストを知った日に、はじめて自覚するであろう。『罪と罰』とはそれへの希望をもってとじる。
ラスコーリニコフは、自分自身の自由・主体性・実存を確立しようとする。その要求自体は決して偽物ではないだろう。むしろ人間にとって根源的なものだからこそ、彼の犯罪にはある種の切実さがある。ところが彼は、その実存を「他者を排除すること」によって確立しようとしてしまう。けれど彼が本当に求めていたものは、決意や実行によって自分の内側から作り出すものではなく、他者との関係、つまり愛によってしか開かれないものだった。繰り返しになるが、この食い違いのどうしようもなさにヒリヒリする。
また、森有正の「かれは本質的に愛の人であった」という鋭い指摘が本当に心に響く。そうであるからこそ私は『罪と罰』が大好きなのだし、ラスコーリニコフをただの愚かな青年と見ることができない。
われわれはこの一篇を通して、ソーニャの深い愛がついにラスコーリニコフの実存の姿勢を崩しえなかったことを知る。しかし、ドストエーフスキーは、真に実存的に、自覚的に働く愛への道をこの一篇の中に探究しようとしたのではないであろうか。
最初は「ラスコーリニコフの実存」が中心問題に見えるが、最終的には、「実存」と「愛」は本当に対立するものなのか、むしろ真の実存は愛へと開かれるものなのではないか、という問いにたどり着く。自分を確立することと他者を生かすことは矛盾しない。
一方で、ソーニャは彼を愛している。彼女は彼を受け入れ、赦し、彼とともにいる。それでも、その愛だけでは、ラスコーリニコフの「自分自身を確立したい」という実存的要求を壊すことができない。この人間観の厳しさ。人間の自我、主体性、自由への欲求は、それほど簡単には消えない。ラスコーリニコフはソーニャを愛していても、彼自身の中にある「自分は何者なのか」という問いを捨てられない。だからソーニャの愛とラスコーリニコフの実存は、最後まで緊張関係にある。そして、この緊張があるからこそ、最後に「希望」が残る。彼が自分の実存を捨ててソーニャに従えば救われる、ということではない。むしろ、彼自身の実存を保ったまま、それを他者へ開かれた実存へと転換できるのか、というところが要点なのであり、そこに救済の可能性があるように思う。
ドストエフスキーの作品でどれが好きかと聞かれたら、迷わず『カラマーゾフの兄弟』と答える。だけど『罪と罰』もやっぱり捨てがたいよなあと改めて思った。私はラスコーリニコフが好きなのだ。今回、森有正の覚書を読んで、なぜこんなにもラスコーリニコフに惹かれるのかわかった。「かれは本質的に愛の人であった」これに尽きる。この悲劇の直接的原因は彼の錯誤と現実無視と頑なさだが、根本的原因は彼が愛の人であることに由来している。そしてまた、ソーニャが彼のなかにその本質を見抜くところに救いのきっかけがある。愛について、次は波多野精一の『時と永遠』を読んでみようと思う。