『古典絵画の巨匠たち』より

aime
·
公開:2024/8/27

トーマス・ベルンハルト(著)、山本浩司(訳)『古典絵画の巨匠たち』を読んだ。

あらすじのない「反=物語」ということもあり、まとまりのない感想だけど、特に印象に残った箇所について書いていく。

ーーーーーーーーーーーーーーー

・p.117

きみはこんな徹底的にバカげた堕落しきった世界に生きてるんだよ、と彼は言ったのだった。この世界をまるごといっぺんにカリカチュアにしなくてはならない。きみには世界をカリカチュアにする力がある、と彼は言ったのだった、そのために必要となる精神の最高の力が、と彼は言ったのだった、これこそ生き延びるためのたった一つの力なんだよ、と彼は言ったのだった。ただ結局はバカげていると思えるものしか僕たちは意のままにできないんだ、ただこの世とこの世の生をバカげたものと思えるときだけ、僕たちは先に進めるんだよ、それ以外にいい方法なんて何もない、と彼は言ったのだった。何かを賛嘆などしてると、そのうちこの世に耐えていられなくなる、手遅れにならないうちに、賛嘆をやめなければ、破滅が待っているんだ、と彼は言ったのだった[…]理性はねえ、本来は賛嘆など知らないんだ、理性は相手をきちんと認識し、尊敬を捧げ敬意を示す、そこまでなんだよ、と彼は言ったのだった。

世界には深く感心してほめるべきことなど無い。そのような世界を「堕落しきった世界」だと、超越的に、馬鹿げたものとして受け止め、そうやってなんとか自分のペースで(=意のままに)進んでいくこと。われわれを操る「生きようとする意志」からの、レーガーなりの解脱なのかもしれない。

・p.220

精密に研究すればするほど、対象は僕たちのなかで価値を失っていくんだ、とレーガーは言った。従って、そもそも何かを精密に研究したりしないように注意しなくてはならない。しかし何でも精密に研究してしまうんだなあ、それが僕たちの不幸なので、そんなふうにして僕たちは何もかも分解してしまい、何もかも壊してしまうんだし、ほとんど何もかも壊しつづけてきたんだよ[…]解体と分解のメカニズム、とレーガーは言った、これを僕は幼い頃から、それが自分の不幸のもとだとは思いもしないで、もう身につけていた[…]僕たちは結局もう芸術を楽しめなくなってしまったんだ、ちょうど人生を、たとえそれがまだとても自然なものだったとしても、楽しめなくなっているように、というのも僕たちはだんだんと素朴さを失いそれとともに愚かさをも失ってしまったからなんだ。

一方で、レーガーは、自分の世界にもはや存在しない本物、完璧をもとめて苦悩する批評家、解体と分解のメカニズムを身につけてしまったがために、永遠の苦痛にはまりこむ男だ。

「生きようとする意志」への奉仕から解き放たれる契機としての芸術を否定してしまっては、どうしようもない。

小説の最後でレーガーは「妻の死によって僕は自由になった、と彼は言った、僕が自由というとき、それはまるごと自由だ、とことん自由だ、完全に自由だという意味なんだ[…]僕はもう死を待ち受けやしない[…]僕はいまこちらに何が近づいてこようが気にならない、本当に何もかも、それに対して抗う必要もなく、もう抵抗なんかしない」と言うが、こんな解決があるだろうか?

・p.277

しかしそんなものがいくら寄ってたかっても、ともかく芸術ごときが束になってかかってきても、このたった一人の最愛の人に比べたらまるで相手にならんのだよ[…]このまさに人生を左右する瞬間に僕たちはこの有名な偉人たち、そしてよく言われるように、不滅の人たちからことごとく見放されるんだ、彼らがそんな人生を左右する瞬間に与えてくれるものと言えば、彼らに取り囲まれていても孤独だという事実、実に恐るべき意味で自分自身しか当てにできないという事実以上のものではないんだ、とレーガー[…]僕らは偉大なる精神や古典絵画の巨匠たちを買いそろえておき、いざ生きるか死ぬかの瀬戸際がきたら、彼らを自分のために利用できると思っている、それはつまり自分のために彼らを悪用することに他ならないが、それが致命的な誤りであることがやがて判明するんだ。僕たちは精神的な金庫を偉大なる精神と古典絵画の巨匠たちで一杯にしておいて、いざ人生を左右する瞬間が来ると、それに手をつけようとする、しかし精神的金庫を開けてみれば、なかは空っぽ、それが真実なんだ、僕たちは空っぽの精神的金庫を前にして茫然自失の態で立ちすくみ、自分たちが孤立無援で本当にすっからかんなんだと分かるんだよ、とレーガー。人間はどの領域でも一生かけてこつこつ物を貯め込んでいく、しかし最後にはすべてを失って立ち尽くすことになるんだ、とレーガー、精神的な財産にしても同じことなんだ[…]突然それが、つまり空虚とは何であるかが分かるんだ、万巻の書籍に囲まれているものの、それらには完全に見放されてしまい、こちらにとっても蔵書が急にむなしい物に、つまりまさにあの恐るべき空虚に思われてきたりするんだから、とレーガー[…]どんなに多くの偉大なる思想家たち、どんなに多くの古典絵画の巨匠たちを手に入れたにしても、そんなものに生きた人間の代わりは務まらんのだよ、とレーガー、結局はとりわけいわゆる偉大な思想家やいわゆる巨匠たちから見放され、これら偉大な思想家と巨匠たちに卑劣きわまりないやり方で自分が侮蔑されていると分かってしまうんだよ、僕たちは、偉大な思想家や巨匠たちとは例外なくただ彼らに侮蔑されることによってしか関係が結べずにいたことを今更のように確認するんだ。

お守りのように大切にしている書物や、芸術に感動した体験が、結局は「生きた人間の代わりにはならない」という圧倒的な事実。改めて言われると怯む。思想家の言葉に感動することと、愛や美を体得することは、もちろん違う。レーガーが誤りとするのは「彼らを自分のために利用できると思っている」という点である。

生きることに倦み疲れた老人、自分を守ってくれると頼みにしていた芸術を、自ら身につけた解体と分解のメカニズムで機能させなくしてしまった男、愛する人を亡くして自由になったと言う人。これのどこが喜劇なんだろうと思うが、レーガーは最後にちゃんと言っている。「これは喜劇なんだよ、そしてこの先どうなるだろうかと問うならば、それは悲劇にしかなりようがない」と。

それにしても……晩年に自分の大切にしてきた蔵書に囲まれて空虚な気持ちに陥る瞬間を想像すると、本当にぞっとする。そんなの嫌すぎる。ということで、このシーンが一番印象に残った。

ーーーーーーーーーーーーーーー

トーマス・ベルンハルトの罵倒小説は、いつもその勢いとワードセンスでこちらを笑わせてくる。

今回一番好きだった罵倒は、ハイデガーを「盗品ばかりを市場に持ち込む哲学版香具師」「何もかもが欠落したパクリ思想家」と罵るところだ。不謹慎だけど笑ってしまった。ここの筆の乗り具合はヤバいので、ぜひ読んでみてください。

来月(2024年9月)新訳が出る『石灰工場』も楽しみです。

@aime
読書と猫とおやつの記録。 プルーストとドストエフスキーを愛しています。読んだ本の感想や引用を投稿していく予定です。 Bluesky🎈 bsky.app/profile/aime2nd.bsky.social