#2023年の本ベスト約10冊 というタグに参加したので、ついでにもう少し長めの文章で2023年の読書を振り返ります。
タグでリストアップした10冊
『イェイツの詩を読む』金子 光晴 (著), 尾島 庄太郎 (著), 野中 涼 (編)
『身体としての書物 (Pieria Books)』今福 龍太 (著)
『『白痴』を読む ドストエフスキーとニヒリズム』清水 高純(著)
『バートルビー 偶然性について』ジョルジョ・アガンベン (著), 高桑 和巳 (訳)
『インディアナ、インディアナ』レアード・ハント(著)柴田元幸(訳)
『ボヴァリー夫人の手紙』フロベール (著), 工藤 庸子 (編訳)
『地図になかった世界 (エクス・リブリス)』エドワード・P.ジョーンズ (著), 小澤 英実 (訳)
『ベルジャーエフ著作集 ドストエフスキーの世界観』斎藤 栄治 (訳)
『愁いなき神 聖書と文学 (講談社学術文庫)』北森 嘉蔵 (著)
『風景の思想とモラル (近代画家論)』ジョン・ラスキン (著), 内藤 史朗 (訳)
2022年に『失われた時を求めて』の一周目を読み終え、その流れでプルースト関連の文献を読みはじめたのが2023年の1月ごろだった。『現代思想のなかのプルースト』土田 知則 (著)を参考に、ベンヤミン、バタイユ、バルト、ドゥルーズなどの思想家を知るための本をいくつか読んだ。
『身体としての書物 (Pieria Books)』は、インターネットや電子書籍の普及が進む現代で、「「本」という歴史的なメディアが現在においてもちうる思想的な可能性」を探るという主題の本。印象的だったのは次の文、
口から手へ、手から手へと微細な変異を孕みながら何ものかが受け渡されていくことの豊かさ、つまり「書物のゆらぎ」の豊かさが、いまの大量生産・大量消費の本の世界には決定的なかたちで失われている。
データベースにアクセスして内容が読めればいい、というわけでは全然ない。「身体としての書物」とは、「辞書的な定義をはじめから拒むような、豊かな可塑性をそなえた全体宇宙」なのだ。電子書籍にも慣れていかなければと思いつつ、紙の本にしかできないことがこんなにもあるのだと感動した。この本で知った『問いの書 (叢書言語の政治)』エドモン・ジャベス (著), 鈴木 創士 (訳)も積んだので、来年読めたらいいなと思っている。
2月末ごろから、『白痴(河出文庫)』ドストエフスキー (著), 望月 哲男 (訳)を一気に読んだ。その研究書である『『白痴』を読む ドストエフスキーとニヒリズム』が本当に素晴らしかった。公爵がスイスの山中で感じた「自然全体からくる疎外感」「激しい不安」についての記述が、まさに今回の『白痴』読了で気になったところなので非常に参考になった。
3月末に読んだ『インディアナ、インディアナ』は、今年読んだ小説のなかで最も心温まる本だった。人を悼むことができるのは、人間の素晴らしい本性のひとつだと思う。最近、ゲーム『OMORI』のプレイ動画を見ていて、その内容にも響き合うところがあるなぁと感じる。
5月、『バートルビー 偶然性について』を読んだ。今年は観念的に小説を読むことを知った年で、そのタイミングで読んだこの本はとても刺激的でおもしろかった。バートルビーの「しないほうがいい」という否でも然りでもない「好み」は、潜勢力(することができるとともにしないことができる)の系譜に連なる。
バートルビーは、ただ意志なしでいることができる。[…]彼の潜勢力はいたるところで意志を越え出ている。[…]バートルビーについては、何かを絶対的に欲するということのないままに為すことができること(そしてまた、為さないことができること)に成功した、と言うことができるかもしれない。
明日は海戦があるだろう、さもなければないだろう」という[…]トートロジーのみがつねに必然的に真であり、それに対して、二者択一の二つから一方を取ると、それはそれぞれが偶然性へと、つまりそれが存在することも存在しないこともできる可能性へと回復される。
ドゥルーズはバートルビーの定式を「荒廃をもたらすもの」だと言うが、アガンベンの捉え方は逆である。回復の可能性なのだ。
バートルビーが過去をあらためて問いに付し、過去を喚起するのは、[…]存在したことをあらためて潜勢力に託し、トートロジーのもつ無差別の真理に託すためである。「しないほうがいいのですが」は可能性の全的な回復 restitutio in integrum である。
潜勢力への意志とは、じつは意志への意志であり、永遠に反復される現勢力であり、反復されることでのみ潜勢力を回復される現勢力なのだ。筆生が筆写をやめ、「筆写を放棄」しなければならないのはそのためである。
そしてバートルビーが死ぬまでこの定式を固持するのは、死んだ手紙部局で彼が知ったこと、「生の告知のはずが、これらの手紙は死へと生き急ぐ」という特異な定式に捉えられれてしまったからだ、と私は思ったが、アガンベンの論旨はちょっと違う感じでそこがわからなかった。要再読。圭書房という出版社から出たメルヴィルの『詐欺師 假面芝居の物語』留守 晴夫 (訳)も気になる。
7月ごろに読んだ『ボヴァリー夫人の手紙』は、フローベールを読むなら必携と思いつつ後回しにしていたのだけど、もっと早くに読めばよかったと思うくらい、本当におもしろかった。私は漱石とゴッホの書簡集が大好きなのだけど、それと同じくらい好きになった。
同じく7月ごろ読み始めた『地図になかった世界 (エクス・リブリス)』はとても力強い小説で、久しぶりに没頭して読んだ。黒人奴隷制度を生きた人々の一生、生活、一人一人の考え方や選択(あるいは選択肢を与えられてすらいないということ)をまざまざと感じ、言葉にならなかった。というか、酷いとか悲惨な、などの言葉では語れない、軽々しく語ってはいけないと思った。同時期に読んだ『砂漠の教室 イスラエル通信 (河出文庫)』藤本 和子 (著)に書いてあった、
問題はわたしの側の思いやりなどではなく、わたしには問を構成する言葉すらないと、わたしが感じることなのだ[…]差別とか偏見とか迫害とかいう手軽な常套語では、ユダヤ人が傷ついた人々であることを満足に説明することはできない。キリスト教の世界観の内部に吸収されることを拒み続けた集団の疎外の質がいかなるものであるか、そのことが理解されないとだめだと思う。
本当にこの通りだと思った。この一冊で理解できることなんてほんの一部に過ぎないとは思うが、歴史の記述だけでは想像しきれない一人一人の姿が見えて、小説の意義を感じた。この流れでフォークナーを読めれば良かったのだけど、この夏はいろいろと心塞ぐことが多くて叶わなかった。代わりに読んだ、フォークナー訳者の加島 祥造さんが書かれたエッセイ『フォークナーの町にて』は良かった。
そして8月は例年通り、『カラマーゾフの兄弟』を読んだ。今年はようやく買った江川訳で読めて嬉しかった。でもやっぱり、どれかひとつ勧めるなら杉里先生の詳注版を推します。
その後、秋は『カラマーゾフ』の余韻で『悲劇の哲学 ドストイェフスキーとニーチェ』シェストフ (著), 近田 友一 (訳)、『ベルジャーエフ著作集2 ドストエフスキーの世界観』、『ドストエフスキイ』ウオルインスキィ(著)などを読んだ。特に『ドストエフスキーの世界観』は最も参考になった。
我意としての自由は自分自身をほろぼし、一変して反対のものとなり、人間を解体し、そしてほろぼしてしまう[…]人神の道をゆくならば、人間の自由は没落し、人間みずからも没落する[…]恣意および我意としての自由、神なき自由は、《無限の圧制》に至るほかはない。
この本はどうして絶版になっているのだろう、でなければもっと早く出会えたのに、と悔しく思うくらい良かった。おすすめです。
そこで神学に関して興味を持ち、『神学の思考 キリスト教とは何か (平凡社ライブラリー)』佐藤 優 (著)、『愁いなき神 聖書と文学 (講談社学術文庫)』と続けて読んだ。特に後者は素晴らしかった。キリスト教における「自由」「愛」について考えるきっかけとなったが、それに加えてこの本では「背教」という点にも重きを置いていて、ドストエフスキーでは神を信じたくても信じきれない人の苦しみが多く描かれているので、そういった面で非常に参考になった。「愛」については、『愛の試み』福永 武彦 (著)も本当に良かった。夢中で読んだし、今後何度も読み返すと思う。
そしてこの冬は、『思想 2013年11月号 時代の中のプルースト』から刺激を受けて、ラスキンとカントを読みたい気持ちが沸いている。『風景の思想とモラル (近代画家論)』は、芸術鑑賞における想像力の使われ方、美しいと感じる根拠を自然に求めることなどが論じられていて、とても興味深くおもしろかった。このシリーズの続刊も入手できたので、来年余裕があれば読みたい。
今年も好きな本を読めて本当に幸せだった。人文思想系の本に興味が出てきて、小説よりも哲学書や学術書を多く読んだ一年だった。来年は小説もたくさん読みたい。私が哲学書にチャレンジし始めたのは、何より海外文学を深く読みたいからで、小説が読めなくなってしまったら意味がない。目的を違えぬよう注意しながら、新しい見方を身につけていきたい。