『失われた時を求めて 4』より

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公開:2024/8/2

『失われた時を求めて 4 ─第三篇 ゲルマントのほう1 』マルセル・プルースト 著 , 井上 究一郎 訳を再読した。

今年は『純粋理性批判』を少しずつ読み進めているので、初めて『失われた時を求めて』を読んだころよりずっと多くのことに気がつくことができたと思う。

異なる文化を生きた人が書く小説を読むとき、その文化、思想、歴史、宗教等を学ぶことは大事だなぁと実感した。

以下に、4巻で特に印象に残った箇所を抜き出します。引用はすべて、ちくま文庫、井上究一郎訳より。

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p.11 ゲルマントの名から想起されるものについて

昔のある春に耳にした小鳥のさえずりをふたたびきけば、一瞬われわれは、絵をかくときに小さなチューブから絵具を出すように、過ぎさった日々の、忘れられた、神秘な、新鮮な、正しい色あいをひきだすことができるのであって、それまでは、下手な画家のように、おなじ一つの画布の上にひろげられたわれわれの過去の全体に、意志的記憶の慣例的な、どれも似たりよったりの色調をあたえていて、そのようなとき、われわれは過ぎさった日々を思いだしていると信じていたのであった。ところで、実際は逆に、過去を構成した瞬間の一つ一つは、その最初の創造にあたっては、当時の色彩をあるユニークなハーモニーに配合していたのであって、そんな当時の色彩は、もうわれわれに忘れられていても、突然いまも私をうっとりとさせるのは、たとえば何かの偶然によってゲルマントの名が多くの年月ののちにこんにちの音とは非常にちがったその音を一瞬とりもどしたようなときであり、非常にちがったその音は、ペルスピエ嬢の結婚式の日を私にもたらし、若い日の公爵夫人のふくらんだスカーフをビロードのように見せていた、いかにもやわらかな、あまりにもよく光る、あまりにも新しいあのモーヴ色を、また、早春に咲きだした摘むことのできないつるにちにち草の花のように、青いほほほえみに照らされている彼女の目を、もう一度私に返してくれるのだ。

無意志的記憶の一例。引用にあたって削るところがなかった。

観念論的な言説を形而上の考察で終わらせず、実際の過去の記憶とからめて表象すること、しかもその文章が美しいこと。理論よりも言語の美しさの優越性を信じているのが伝わってくる。こういった文章と出会うとき、『失われた時を求めて』を読んでいてよかった〜と嬉しくなる。

p.75 二度目のラ・ベルマ鑑賞、未知の芸術の受容について

ある人物、ある作品(またはある演出)がきわめて個性の特徴の強いものであれば、そういうものがわれわれにきざみつける印象は特別のものになる。われわれはすでに自分で、「美」とか、「ゆったりとしたスタイル」とか、「パトス」とかの観念をつくってその場にやってくるのであって、実物であることにまちがいはないが平凡に見える才能と顔のなかに、既成の諸観念を、厳密にいえば、錯覚するのだといえるだろう、しかし、われわれの注意深い精神は、実物の形から抵抗を受けるのであって、精神はその形にたいする知的な等価物をつくりえず、その形から勝手のちがった未知のものをひきださなくてはならないのである。精神はある鋭い音、ある奇異な問いかけの抑揚をきく。精神は首をかしげ、「これが美しいのだろうか? ぼくが抱いているのは感嘆の念であろうか? これが色彩のゆたかさであろうか、気高さ、力強さであろうか?」と問いかける。そしてそんな精神に、またしても答えるのは、ある鋭い声であり、ある奇妙な質問調であり、ある未知の人間から受けるまったく物質的な、強圧的な印象であり、そこには、「ゆったりとした解釈」を入れるためのどんな空間も残されてはいないのである。そして、そういう経験にぶつかるからこそ、それは真に美しい作品なのであって、われわれがきまじめにそれに耳を傾けるならば、当然それはわれわれをこの上もなく失望させることになる、なぜなら、われわれの既成の観念のコレクションのなかには、そういう個性的な印象にこたえるだけのどんな観念も存在していないからなのだ。

われわれが予め持っている観念によって経験を処理するというのが、カント的だなと思った。新しい芸術を受容できないのは、自分がそれにふさわしい観念を未得だから、という考え方。プルーストは芸術に対する時に「その形から勝手のちがった未知のものをひきださなくてはならない」という態度を求めるのだ。

p.105 フランソワーズの二面性から理解したこと

われわれが外面から見ているのと実際とがちがうのは、単に物理的世界だけではない、おそらくまた、現実というものはすべて、われわれが直接知覚していると信じているような現実、われわれにはたらきかける無形の思想のたすけによってわれわれが構成しているような現実とは、似て非なるものであるだろう、同様に、木や太陽や空も、われわれの目とはちがった構造の目をもっている生物、またはおなじ用途のためでも目とは異なる器官をそなえ木や空や太陽を非視覚的な等価物で置きかえるような器官をそなえた生物によって認識されるならば、われわれが見ているような木や太陽や空ではなくなるだろう、と。

ここもすごくカント的。物自体と現象は別であること。おもしろかったのは、「非視覚的な等価物で置きかえるような器官をそなえた生物」の認識を考えるところ。プルーストの比喩の素晴らしさは、こういう考えから出てくるのかなと思った。

p.136 ドンシエールのホテルでの、眠りの考察

人間の生活は睡眠に沈むのであり、睡眠は夜ごとに人間の生活のまわりをあたかも海が半島をかこむようにとりまくのである

ここに続く下記のパラグラフがおもしろかった。

p.141 「人が穴のなかに落ちたときのようなあのねむり」「鉛のねむり」からの目覚めと自我について

それならば、紛失した物をさがすように自分の思考や自分の個性をさがすあいだに、どうして人は全然ほかのものではなく結局自分自身の「自我」を見出すことになるのか? なぜ、ふたたび考えはじめるそのとき、われわれの肉体のなかに宿るのは、以前の個性とはちがったべつの個性である、ということにならないのか? その選択をきめてくれるのが誰であるかを人は目に見るわけではない、それなのに、なぜ、何百万という人間の誰でもいいなかから、ぴったりとつかまえるのはきのうとおなじこの自分という人間なのであろう。実際に中断があったのに、誰がわれわれの手びきをしているのか(ねむりが完全であったにしても、夢がわれわれからまったくかけはなれたものであったにしても)?[…]目ざめにおける復活は、忘れられた名や詩句やルフランを見出すときに起こることと本質において似ているにちがいない。そしておそらくは、死後の魂の復活も、記憶の一現象としてならば考えられることであろう。

現在の記憶が過去とつながっているというプルーストの世界観において、この疑問は重要だと感じた。ベルクソンやポール・リクールを読んでみたいと思う。

p.146 ドンシエールでの快い疲労と少年時代への後退

詩人たちは、われわれが幼少のころを過ごした家とか庭とかにふたたびはいるとき、そこにあったわれわれのかっての姿を一瞬見出す、と主張する。それはひどくあてにならない巡歴で、それによって人は成功もするがおなじだけ幻減も覚悟しなくてはならない。異なる年月と同時期に位置する不動の場所は、われわれ自身のなかにそれらを見出すに越したことはない。快いねむりの夜をあとに伴う大きな疲労は、ある程度、そのような場所を見出すことに役立ってくれる。そんな疲労は、睡眠のもっとも奥深い地下の坑道にわれわれをおろすのであって、そこには、前日のどんな光の反映も、記憶のどんなあかりも、内的独白を――内的独白がそこまでついてくると仮定して――もはや照らすことはないのである。そんな深い坑道にわれわれをおろすために、大きな疲労は、できるだけ深くわれわれの肉体の土と凝灰岩を掘りかえすことによって、われわれの筋肉をその底にもぐらせ、その底に繊維組織の失端をねじこみながら、新しい生命を吸いとらせる、そういうところにおいてこそ、大きな疲労は、かつてわれわれが少年であったころの庭をわれわれに見出させるのである。そんな庭を見出すために旅行をする必要はない、それを見出すためには深く下降しなくてはならないのだ。[…]逃げさる、偶発的な、ある種の印象が、分解する有機物などよりも、もっと精密な正確さでもって、もっと軽い、もっと非物質的な、もっと目にもとまらぬ、もっとあやまつことのない、もっと不死のひととびでもって、どんなにうまくわれわれを過去に連れもどすかはやがてわかるであろう。

われわれ自身の中に過去を見出すこと。その契機としての印象。そしてそれらの土台となる記憶。最後の文章が未来の予告にもなっている箇所だ。

p.232 ドンシエールから帰宅した私が、サロンで祖母を見つけるシーン

私が祖母の姿を認めたこのときに、私の目の中に機械的に写されたのは、なるほど一枚の写真であった。われわれがいとしい人々を見るのは、生きて動いている組織のなか、われわれのやむことのない愛情の永久の運動のなかにおいてでしかないのであって、愛情は、いとしい人々の顔がわれわれにさしむける映像をわれわれにとどかせるまえに、それをおのれの渦巻のなかにとらえ、そうした映像をいとしい人々についてわれわれがつねづね抱きつづけている観念の上に投じ、その観念に密着させ、その観念に一致させるのだ[…]われわれの視線から、それがながめるべきではないものをかくすために、われわれの理知と敬虔とから出た愛情がうまく駆けつけようとするときに、偶然の残酷なたくらみがそれをさまたげてしまう、つまり愛情が視線に先手を打たれてしまう場合であって、視線が真先に即座にやってきて、機械的に感光板の作用をはたしてしまうのである、そんな場合、ずいぶんまえからもういなくなった愛するひと、しかし愛情がその死をけっしてわれわれにあらわに感じさせることを欲しなかったひと、そのようなひとの代わりに、視線がわれわれに見せつけるのは、新しいひと、日に百度も愛情がいつわりの親しげな類似の相貌をとらせる新しいひとなのである[…]私は、祖母すなわち私自身という関係をまだ断ちきっていなかった私は、祖母を私の魂のなかにしか、つねに過去のおなじ場所にしか、そして隣りあいかさなりあう透明な思出を通してしか、けっして見たことのなかったこの私は、突然、[…]はじめて、ほんの一瞬のあいだ(というのはそういう祖母はすぐにばっと消えてしまったからだが)、ランプの下の、長椅子の上に、赤い顔をして、鈍重で俗っぽくて、病んで、夢にふけって、頭がすこしぼけたような目を本の上にさまよわせている、私の知らないうちひしがれた一人の老婆の姿を認めたのであった。

祖母が出てくるシーンは、毎度毎度せつなすぎる。究極のおばあちゃんっ子小説だ。

愛する人、いつもそばにいる人の変化に気づかないのはひとえに愛情のせいであり、しかしその愛情は「偶然の残酷なたくらみ」のふいうちを防ぐことはできない。「愛は盲目」は万能ではない。警戒しながら愛することはできない。老いや死という避けようのない現実に抗する術はない。いきなりこんな真実をぶつけられて動揺した。

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抽象に陥らない観念を描き出すという、小説だからこそできることの追求。そしてその文章が美しいこと。

私がプルーストを読む理由はこれなんだなと、今更ながら腑に落ちた巻だった。本当に素晴らしい小説だ。

あと一番気に入ったシーンは、「私」がドンシエールを発つ日にサン=ルーからいっさい私情をまじえぬ敬礼をされるところです。このエピソードがなぜか大好き。

次巻は「ゲルマントのほう 2 」で、祖母の死と、アルベルチーヌとの恋が描かれる。

楽しみです。

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読書と猫とおやつの記録。 プルーストとドストエフスキーを愛しています。読んだ本の感想や引用を投稿していく予定です。 Bluesky🎈 bsky.app/profile/aime2nd.bsky.social