『失われた時を求めて』ノート

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第一部「コンブレー」で良かったところ

  • マドレーヌの挿話、「回想の巨大な建築」

  • ジョットの「慈悲」になぞらえられる下働の女中

  • 読書について

  • ベルゴットについて

  • 秋の散歩、モンジューヴァンの灌木の近くで雨風と格闘、ヴァントイユ氏の庭師の小屋のスレート

  • ヴィヴォーヌ川のガラスびん

  • マルタンヴィルの二つの鐘塔

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以下、ちくま文庫版 井上究一郎訳より引用(数字はページ数)

74

われわれの過去もまたそのようなものである。過去を喚起しようとつとめるのは空しい労力であり、われわれの理知のあらゆる努力はむだである。過去は理知の領域のそと、その力のおよばないところで、何か思いがけない物質のなかに(そんな物質があたえてくれるであろう感覚のなかに)かくされている。その物質に、われわれが死ぬよりまえに出会うか、または出会わないかは、偶然によるのである。

ここで早くも「思いがけない物質」に「偶然出会う」という主題が表されている。このあとにマドレーヌの挿話がつづく。

78

しかし、古い過去から、人々が死に、さまざまな物が崩壊したあとに、存続するものが何もなくても、ただ匂と味だけは、かよわくはあるが、もっと根強く、もっと形なく、もっと消えずに、もっと忠実に、魂のように、ずっと長いあいだ残っていて、他のすべてのものの廃墟の上に、思いうかべ、待ちうけ、希望し、匂と味のほとんど感知されないほどのわずかなしずくの上に、たわむことなくささえるのだ、回想の巨大な建築を。

「回想の巨大な建築」という言葉に計り知れない重みを感じる。

141

しかし、実際の人物のよろこびまたは不幸がわれわれに感じさせる感情も、すべてそのよろこびまたは不幸の映像を仲介にしてしかわれわれの心のなかにわきおこらないものなのだ、われわれの感動装置では、この映像が唯一の本質的要素だから、小説の創始者のすぐれた工夫は、実際の人物を思いきってあっさり消してしまうといった単純化こそ決定的な完成であろうと解した点にあった。実際の人間は、われわれがその人間にどんなに深く共感しても、その大部分はわれわれの感覚で知覚されるものであり、ということは、われわれにとって不透明のままなのであり、一種の荷重を呈していて、われわれの感受性はそれをうまくもちあげることができないのである。

159

彼がたのしんで調子をやぶるようになったそんな一節一節が、いまはわれわれの好むところであった。私はといえば、そうした個所を暗記していた。彼がふたたび話の糸をたぐりはじめると、私はがっかりするのであった。それまで私にかくされていた美をもっている何かにふれて彼が語るごとに、そうした美、松の林とか、霰とか、パリのノートル=ダム大聖堂とか、『アタリー』とか『フェードル』のもっている美を、彼は私に近よせ、それを一つの映像のなかで爆発させた。だから、この宇宙のなかには、彼が私に近づけてくれなかったら私の貧弱な知覚では識別できないであろう部分がどんなにたくさんあるかを感じて、私はあらゆる事物について、そのなかでも、他日私自身が見る機会のあるもの、とくにフランスの史蹟、ある種の海の風景について、彼の意見、彼の比喩をわがものにできたらと思った、というのも、彼はそうしたものを力説しながら彼の書物に引用していて、ゆたかな意味と美とをそうしたものに認めていることがわかったから。

「私」がベルゴットに対してこう感じるように、また、プルーストがラスキンに対してこう感じたであろうように、『失われた時を求めて』を読む私自身が、プルーストに導かれていると思う。芸術を受容するには訓練がいる。

259

われわれが抱いた感覚の表出といわれるものの大部分は、その感覚を、うまくつかめない不明瞭な形でそとに出しながら、そのようにぱっと発散してしまうことでしかないのである。[…]その秋の、そうした散歩のある日に、私が、モンジューヴァンの背後の防壁となっている灌木のしげった斜面の近くで、われわれの受ける印象と、その印象をわれわれが表現する日常の言葉とのあいだのくいちがいに、はじめて心を打たれた、ということである[…]ふたたび太陽を反映して光っている沼のなかに、スレートの屋根がばら色の大理石のまだら模様をつくっていたが、そんな模様に注目したことはまだ一度もなかった。そして水のおもてと壁の表面に、ある青ざめたほほえみがちらつき、それが空のほほえみに答えているのを見て、私は熱狂のあまり、とざした雨傘を振りまわしながら叫んだ、「ちえっ、ちえっ、ちえっ、ちえっ。」しかし同時に、自分の義務はこんな不透明な語にとどまることではなく、自分の魂をうばったこの恍惚をもっとはっきりと見るようにつとめることではなかろうか、と感じた。

このシーンの「私」の若さ、みずみずしさ!

282

…そうしたガラスびんは、なかに川水を満たし、そとはそとで川水にすっぽりとつつまれて、まるでかたまった水のように透明な、ふくれたそとまわりをもった「容器」であると同時に、流れている液状のクリスタルのもっと大きな容器のなかに投げこまれた「内容」でもあって、それが水さしとして食卓に出されていたときよりも一段とおいしそうな、一段と心のいらだつ清涼感を呼びおこした、というのも、そのように川に沈んだガラスびんは、手でとらえることができない、かたさのない水と、口にふくんで味わえない、流動性のないガラスとのあいだに、たえず同一の律動の反復をくりかえして消えてゆくものとしてしかその清涼感をそそらなかったからであった[…]おそらく水は、そのときまで、いつでも結晶化させられるようにして、そんな房を、目に見えないように、そっと溶かしてひそめていたのであろう。

「いつでも結晶化させられるようにして[…]ひそめていた」水という記述は、記憶を呼び起こす媒介としての物質と、それを「偶然」呼び起こすのは「私」であるというメインモチーフの反復のように思う。

前半のガラスびんについて、もう一度ベンヤミンの文章を読むこと。

★300〜

…印象の奥底に達していないのを感じ、何かがこの運動の背後、このあかるさの背後に存在する、それらの鐘塔はその何かをふくみながら同時にそれをかくしているようだ、と感じるのであった[…]もし私が頭の中にそれらの線をしまっておいたならば、おそらく二つの鐘塔は、これまで私がほかのものから区別してきた多くの木や屋根や匂や音のところに行って永久に合体したことであろう、それらの木や屋根や匂や音も、おなじようにえたいの知れない快感を私にあたえたのであった[…]マルタンヴィルの鐘塔の背後にかくされていたものは、いくつかの語の形で私にあらわれ、それらの語が私に快感を起こさせたのだから、それは美しい文章に似た何物かであるにちがいない

「私」がはじめて「印象の背後にかくされているのものを認識するようにつとめるという義務」を果たすシーン。作家という職業の重苦しさがしみじみ伝わってくる。

@aime
読書と猫とおやつの記録。 プルーストとドストエフスキーを愛しています。読んだ本の感想や引用を投稿していく予定です。 Bluesky🎈 bsky.app/profile/aime2nd.bsky.social