
ドストエフスキー(著)、杉里直人(訳)『詳注版 カラマーゾフの兄弟』と、ゴロソフケル(著)、木下豊房(訳)『ドストエフスキーとカント『カラマーゾフの兄弟』を読む』(以下、『ドストエフスキーとカント』と略す)を読んだ。
今回は主に『ドストエフスキーとカント』を読んで感じたこと、わかったことについて書いていく。
私はまだ『純粋理性批判』をすべて読めていないので、この記事におけるカント解釈はゴロソフケルに依拠している。もし「それは一般的に誤った認識ですよ」という箇所があればすみません。
『ドストエフスキーとカント』内に出てくる『カラマーゾフの兄弟』引用部分の訳は、木下豊房さんが訳されたものです。語句や固有名詞の表記は『ドストエフスキーとカント』から抜き出しています。
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『ドストエフスキーとカント』では、はじめに「父親殺しの犯人は誰か」というテーマが掲げられる。裁判で人間の裁きを受けたのはドミトリイ・カラマーゾフ、「神の裁き」を受けたのはイワン・カラマーゾフ、自分を裁き、自殺によってみずからを断罪したのはカラマーゾフ老人の物理的な殺害者のスメルジャコフである。しかし、それらは「筋立て上のプラン」であり、「思想的な意味上のプラン」、理念の犯人は「悪魔」である、とゴロソフケルは指摘する。
そしてその悪魔は、カントの『純粋理性批判』第二部「先験的弁証論」のなかの「矛盾論」の四つのアンチノミーに潜んでいる、とゴロソフケルは言う。
四つのアンチノミー:
一、世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有するか、それとも無限で永遠なのか?
二、どこかに分割できず破壊されない統一が存在するのか、それともすべては分割され、破壊されうるのか?
三、私は自分の行為において自由であるのか、それとも、他の存在と同じように、自然と運命の指図に従属しているのか?
四、世界の最高原因は存在するのか、それとも、自然の事物と自然の秩序は私たちのあらゆる研究を通じて問題にすべき最後の対象であるか?
この中でも特に四つめのアンチノミーのテーゼとアンチテーゼが、小説の中ではっきりと示されている。それは「神は有りや無しや」という問いである。「コニャックを飲みながら」の章にて「神はある」と断言するアリョーシャ(ゾシマ長老)はテーゼの側に、「神はない」と言うイワン(スメルジャコフ、悪魔)はアンチテーゼの側に立つ。
そしてゴロソフケルは、このテーゼとアンチテーゼの間を揺れ動く人物として、イワンを「カント的アンチノミーの主人公」と見る。
イワンの当初の思想は「神はない、善行もない」「すべてはゆるされる」であり、そのアルターエゴであるスメルジャコフ、悪魔もそう主張する。一方でイワンの中には、無意識ながらも、罪もなく苦しむ幼児ゆえに「この世界」を認めないというテーゼの側につく面もある。
スメルジャコフがアンチテーゼの理論のもと父親を殺害してしまうと、イワンの心の天秤棒は激しく動揺する。テーゼとアンチテーゼの矛盾はいよいよ大きくなり、苦しみが深くなっていく。
ここに、悲劇が起こる。
もしイワンにテーゼが信じられたなら、すでに一度アンチテーゼの側に立って敗北した彼は、テーゼの側に立ったであろう。しかし彼にはテーゼも信じられなかった。そもそも彼は信じるということができなかった。それというのも、彼には知識欲が強かったからである。彼は知識には近づけない事柄(カント!)、証明不可能な事柄(ゾシマ長老とカントの主張!)、しかしいわば信じることは可能な事柄(ゾシマ)を知ろうと望んだからである。
カント的な形式論理で解決しようとしても、絶対論者のイワンには「理性の避けがたい錯覚」という怪物は倒せなかった。
アンチテーゼとテーゼの理論的なたたかいの全貌なるものは、実は本質的にいって、理論的アンチテーゼと良心そのものとのたたかいだったのである。この良心そのものは、定言的命令によっては置き替えのきかない代物なのである。定言的命令というのは、いうならばアキレウスとヘクトルとのたたかいにおけるアテナのようなものであって、カントのテーゼを手助けするために、目に見えぬ形で、いわば神力を介入させて、アンチテーゼの理論的な槍を理論家アキレウスの身体からそらしてくれるわけである。
父親殺しの報いというよりも、俗世の真実とされるアンチテーゼのカント的な綱領の報いとして、作者の意向を受けて、良心がイワンを咬み殺したのであった。小説の中のアンチテーゼが悪魔である以上、良心はイワンの姿において、悪魔に対してもカントに対しても、一挙に制裁を加えたのであった。
「イワンには無意識的なテーゼ(宗教)という第二の側面」があって、「作者はこの無意識的なテーゼをつかまえることによって、彼を破滅させないで、このテーゼに自分の主人公にとっての救いを見出そうとした」が、「絶対論者としてのイワンは、理性に無意識の経験的、偶然的な解決ではなく、意識的、絶対的な解決を求めたのである」。そしてその果てに、理性は発病してしまったのだった。
どうすればこの解決できない問題、避けがたい矛盾であるアンチノミーを解決できるのか?
カントはこの矛盾を定言的命令によって解決しようと試みたが、ドストエフスキーはそうではない。この除去できない矛盾を、「ミーチャの二つの深淵、すなわち両方を一度に見ることができるカラマーゾフ一族の性格に見られる二つの深淵」でもって解決しようとした。
問題の急所は「気高い心を持ち、すぐれた知力をもった人間が、マドンナの理想を抱いてその一歩を踏み出しながら、最後はソドムの理想に終わるということ」にあるのではなくて、「すでにソドムの理想を心に抱いている者が、マドンナの理想をも否定しない」(三-3)ということ――同一瞬間に二つの対極、テーゼをもアンチテーゼをも受け入れるということなのである。
そしてここで一つ、とても興味深い指摘がある。
ドストエフスキーはテーゼに解答を見ていたのではなく、人格化されたテーゼとしてのゾシマ=アリョーシャはただそこに出口を見出したいという作者の理論的願望にすぎず、確信ではなかった――そのことのまたとない論証になるのが、テーゼのもう一つの道徳的化身にして、正義愛、人間愛の体現者である『白痴』のムイシュキン公爵の運命である。アンテテーゼがイワンを狂気に至らしめたとすれば、テーゼがムイシュキン公爵を狂気と白痴に到らしめたのである。つまり、テーゼに解決があるわけのものでもない。
どちらか一方だけを選ぶ限り、そこに解決はない。
「二つの対立的な解決を同時に受け入れるという方法」を、しかしカントの弁証論のようにではなく、生きる道徳、良心によって受け入れるところに救いがある。
アンチノミーの天秤棒の上での永久動揺からの救済のためには、作者はこの錯覚を実在として受け入れるよりほかには、つまり、ミーチャにおける二重世界の矛盾を受け入れ、実体化した矛盾にひそむ生活の意味を高唱するほかにはなかったのである。
こうなると、問題はテーゼ、またはアンチテーゼにあるのではなく、それらの永遠の決闘にある。それはミーチャにとっては秘密と神秘の結合であり、悲劇的で悪魔的な美としての生活を彼に開いてくれるものなのである。要は戦闘にあるのであって、どちらかの側の勝利にあるのではない。
若き思想家イワンは勝利への唯一の道を、自然の無気味な真空に対して科学で武装した絶対的無神論者、つまり未来の人神の誘り高い勇気に見ていた。その際に、彼はもう一つの、作者にとってはおなじみの、きわめて強力な人間の武器であるところの芸術を完全に見落していた。というのも、人間は真理において滅びる所で、美によって救われるからである。
イワンは心の神秘の部分では、悪魔にいわせると、荒野の修業僧と同じように、信仰と不信仰の深淵を同時に見たいと願っていた。ミーチャと同じように、存在の理解を抜きにして、存在の矛盾を心でもって受け入れたい、と願っていた。願っていたができなかった。彼は理論的な思想家だったから。
この最後のニつの文に、ドストエフスキーの描く悲劇、「知の地獄」が何かということが詰まっていると思う。
存在と人生の真理の全体を認識しよう[…]と渇望しながらも、この終局を把握することは、自己の認識活動がどんなにうまくいったとしても、力が及ばないという、人間知性のこの悲劇
人間には理解しえない領分があることを、理論的知性ではなく良心によって、生きる感情によって、実行的な愛でもって受け入れること。これがドストエフスキーの答えであり、カントとの違いであった。
ゴロソフケルは、ドストエフスキーの作品群を次のように評している。
ドストエフスキーは悲劇とヴォードヴィルの二重の状況を同時に、小説のすべての相において、なかでも知性が自分の知識、それもしばしば偽りの知識を完全な知識と取り違えて自分自身を欺き、そのことによって他者をも欺く場合に見られる知的神秘の諸相において、創造することにより、自分の芸術的形象に複雑な意味を持たせた。しかもドストエフスキーはこうした手法を用いることにより、悲劇それ自体、あるいは悲惨事それ自体のなかでヴォードヴィルを演出して見せ、心情によってのみ問題が解決できる個所において、理知が知識にこだわろうとするのを物笑いの種にした。
ドストエフスキーはアンチノミーの理論性それ自体を排除したのではなかった。その理論性は彼には必要であったが、しかしそれはもっぱら、人間の知性そのものが、彼の見解によれば、単なる理論的知性の手段だけでは解決できない争論に際会していかに苦しむか、そして同時に、この争論が理論的見地でだけおこなわれるとすればいかに滑稽なものであるかを、明らかにするためであった。
ドストエフスキーの長編小説群には観念に憑かれて破滅していく人の苦悩が多く描かれているが、その破滅の意味は、カントを含めた西欧思想への批判であり、「科学」へ否を突きつけることだった、と理解した。
形式論理から発する道徳では、人間を描けない。「生ける感情の良心」を教えてくれるのは小説だ。ここにドストエフスキーの小説を読む意義を感じた。
今回、ドストエフスキーとカント(を含む西欧思想)が深くつながっていることをようやく知った。この観点から改めて、ドストエフスキーの他の長編小説群を読み直したいと思った。
そしてカントをもっと読むこと、ヘーゲルについても学ぶことが取り急ぎの課題だと認識した。
『ドストエフスキーとカント』に異論をとなえる書物として、アルセニイ・グリガ(著)『カント』(法政大学出版局)があるとのことで、こちらも可能であれば読みたい。
