今年はバルザックの人間喜劇を読みたいと思っていて、まず手元にある『ゴリオ爺さん』を再読した。
印象的だったシーン
以下、この節内の引用は『ゴリオ爺さん 改版 (新潮文庫)』バルザック (著), 平岡 篤頼 (訳)から。
さすがは女だ![…]他人の幸福のことになると、娘というのは泥棒みたいに狡猾になるんだな。自分のことには無邪気で、おれのことには先まで見え、彼女はまるで、いっこうに理解できないながらも地上の過ちを赦す天界の天使だ。
物語序盤、ラスティニャックが妹を評する言葉。ドストエフスキー作品でも「田舎の妹」は天使のように描かれるな、と思う。妹達が主役の話は「人間喜劇」にあるのだろうか、あれば読みたい。
ひとつ注目に値するのは、感情というもののもっている浸透力である。どんなに粗野な人間であれ、あるひとりの人間が強力で真実な感情を表現するやいなや、その人間から特殊な流体が発散されて、顔つきを変え、動作を生き生きとさせ、声に艶が出る。
人間観察力! と驚いた。「浸透力」「特殊な流体」という語句が印象に残った。
その言葉を聞いてウージェーヌは、まるで老嬢に飛びかかって絞め殺しかねないような勢いで、身を躍らせた。彼の腹黒い底意を理解したその目つきが、彼の魂に一条の恐ろしい光を投げたのである。
漱石の『こころ』の一文、「もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫ぬいて、一瞬間に私の前に横わる全生涯を物凄く照らしました。」これを読んで本当に恐ろしく感じたものだが、ここでもやはり、人間をはっとさせるのは闇を貫く光なのだ。光があるから闇が浮き彫りになる。
ああ、親切な、ウージェーヌさん、黄金みたいに輝いていた目が、不意に灰色の鉛みたいな目つきに変るってことが、どんなことかあんたにはわかるまい。
この一件がきっかけで、ゴリオ爺さんの中に娘達を憎む心が生まれたのではないだろうか。
ロケットが胸にさわると、老人は、見ていてぞっとするほどの満足を示す、《あーあ》という長い吐息をついた。われわれの共感感覚がそこから発し、またそこへと向う未知の中枢へと退いてゆくかのような、彼の感受性の最後の反響なのだった。引きつった彼の顔は、病的な喜びの表情を帯びてきた。
『ゴリオ爺さん』で一番好きな描写! 見てはいけないものを見てしまったかのような恐ろしい数秒が、スローモーションで流れていくのを感じた。
パリというすてきな町の長所のひとつは、こっちが生れようが、生きようが、死のうが、誰もいちいち気にしないってことなんだぜ。
この文章がラストシーンにあるのが、映画みたいで好きだ。
感想
父親殺しという単語が本文中にも出てきたが、むしろ逆だと思った。娘達が、破壊されたのだ。
ゴリオ爺さんの中には、二人のゴリオ爺さんがいる。娘達を愛しているゴリオ爺さんと、娘達に裏切られたと感じるゴリオ爺さんだ。愛している方のゴリオ爺さんは、命まで捧げて娘達を愛し抜き、最後まで娘達を信じようとする。一方、裏切られたと思っている方は、いつからか爺さんの心の中に棲みついて娘達を疑い、憎み、ゴリオ爺さんが自分を制御できない状態になってはじめて表に出てくる。そんな悪魔を心に宿して、でも『カラマーゾフ』のイワンのように分裂しなかったのはなぜだろう。ゴリオ爺さんは、自分を疑うことをしなかったのだろうか。娘達への激情が、盲目にさせたのだろうか。
この小説を語るとき、父性愛という言葉が多く使われているように思うが、読み終えてわかったのは、これは普通の意味の父性愛ではないということだった。ゴリオ爺さんの最期、怒涛の断末魔は恐ろしかった。すごい迫力だった。
新潮文庫の解説で「《情熱家》たちに特有の、この破滅へ向う感情の自動的激化」と訳者の平岡篤頼さんが書いていて、ドストエフスキーでよく見るやつだと思った。また、そのあとに「ゴリオ爺さんも到達不可能な《絶対》、すなわち彼の場合は、神がその被造者にたいしてもつような父性愛を追求したために、倒れざるを得なかった」と書いている部分も衝撃的だった。
ウージェーヌはゴリオ爺さんのことを「美しい魂」と言うけれど、そうだろうか。そうではないということを、バルザックは表現したのだと思う。愛は美しい。父が娘を愛するのは美しい。愛のために自分を犠牲にするのも、美しいことに類する。でも、ゴリオ爺さんの愛は、あるところまでは美しい愛だったかもしれないけれど、最後はそうではなかった。死の床で娘達を呼ぶ姿はおぞましかった。「被造者にたいしてもつような父性愛」と、美しい父性愛は、違うのだ。どこで分かれてしまったのだろう。ここで、福永武彦の『愛の試み』で読んだ一節が思い出される。
相手の孤独を重く見る場合もある。その時、自己の孤独が癒やされるか否かは問題ではないし、彼は愛することによって、一層重い痛手を受けるだろう。しかし彼にとって、何よりも大事なのは相手の孤独、その苦しみ、その悩みであり、彼は自分のあらゆる力を以てそれを救おうと試みるだろう。そして最後の救いというものは、その孤独を自分の中に包含すること、それを所有することだと知るだろう。[…]愛している限り、常に彼は自己の孤独を意識して相手のそれと対比させながら、タンタロスの飢渇に苦しめられて迷路を行かなければならない。この苦しみには終りというものがない。そしてそれが、人間的な愛の本来の姿なのである。
福永武彦は、愛とは相手の魂を所有することであり、最後の救いは相手の孤独を自分の中に包含することだと言う。キリスト的な愛は対立するものを包むのだ。ゴリオ爺さんは、そこを間違えたのだと思う。「神がその被造者にたいしてもつような父性愛」は、人間がまねできない愛だ。たとえ相手のために命を差し出したとしても、それが結局自分のためならば、無償の愛ではない。何を為したかではない。価値を追求するような愛は、エロースの愛だ。欠如しているものを埋めるための愛では、最後に幸せになることはできない。そこに思い至らなかったのが、ゴリオ爺さんの悲劇だと思う。
坂口安吾が『ドストエフスキーとバルザック』で書いたこと
小説は、人間が自らの医しがたい永遠なる「宿命」に反抗、或ひは屈服して、[…]弄ぶところの薬品であり玩具であると、私は考へてゐる。小説の母胎は、我々の如何ともなしがたい喜劇悲劇をもつて永劫に貫かれた宿命の奥底にあるのだ[…]小説はこのやうな奇々怪々な運行に支配された悲しき遊星、宿命人間へ向つての、広大無遍、極まるところもない肯定から生れ、同時に、宿命人間の矛盾も当然も混沌も全てを含んだ広大無遍の感動に由つて終るものであらう。
如何ともなしがたい悲劇、『ゴリオ爺さん』にもたしかにあった。宿命の他者性はギリシャ悲劇の命題だと別の本に書いてあった。「愛による運命との和解」までいけばヘーゲル哲学だそうだが、小説は「全てを含んだ広大無遍の感動」に到達するのだ。やはり小説、おもしろすぎる。
私は、小説に於て、説明といふものを好まない。行動は常に厳然たる事実であつて、行動から行動への連鎖の中に人物の躍如たる面目があるのだと思つてゐる[…]芸術の金科玉条とすべき武器は、即ちこの如何に巧みに暗示するかといふことであつて、読者の感情も理知も、全ての能力を綿密に計算して、斯う書けば斯う感じるにちがひないと算出しながら、震幅の広い描写をしてゆくべきではないかと思ふのである。
これはラスキンの著書にも出ていたこと。
バルザックやドストエフスキーの小説を読むと、人物々々が実に的確に、而して真実よりも遥かに真実ではないかと思はれる深い根強さの底から行動を起してゐるのに驚嘆させられる[…]人生への、人の悲しき十字架への全き肯定から生れてくる尊き悪魔の温かさは私を打つ」
ドストエフスキーもバルザックも、読んでいて本当に引き込まれる。小説において、真実を書くことが最も難しいのだなとしみじみ感じた。