
『ドストエフスキー全短篇』を読んだ。I はかなり飛ばし読みしたが、II は「おとなしい女」「百姓マレイ」が素晴らしく、この二作を何度も読み返した。特に「おとなしい女」は、今まで小沼訳で読んできたところ、今回はじめて米川訳で読み、緊張感が漲る訳文に新鮮な驚きを感じた(逆に「鰐」は原訳の方が笑えて好き)。あわせて山城むつみ『ドストエフスキー』「第三章 マリヤの遺体とおとなしい女」、秦野一宏『ドストエフスキイと自殺 -『おとなしい女』をめぐって』も読んだ。二者ともに、おとなしい女の自殺の責任が自分にあるという責めの感覚、「私が殺した」と思うことがポイントだと指摘しているのだが、よりストレートにそれを論考の中心に据えている秦野さんの論文が、もっとも参考になった。以下に引用させていただく:
「〔ジョルジュ・サンドの若い女主人公たちにあっては〕思いやり、忍耐、義務意識の間には、問い質しと抗議の極度の傲岸さも現れていたが、この傲岸さこそ貴重なものだったのである。というのもそれは、最高の正義、これなくしては人類が精神的な高みに立つことのできないような正義に由来するものだからだ。(…)この傲岸はまた、俺はおまえより優れている、おまえはおれより劣っているということから来る敵意ではなく、ただ不正や悪徳となじむことのできないもっとも潔癖な感情である。とはいえ、繰り返しになるが、この感情は大いなる寛容とも、思いやりをも排除するものではない。のみならず、この傲岸さに応じて、絶大な義務をみずから自分にも負わせている。これらの女主人公たちは、犠牲と功業を渇望していたのだ」
※ドストエフスキー『作家の日記』より孫引き
「クロトカヤは自分と「あなたがた」の向こう側にいる人間であり、クロトカヤを前にすると、自分と人々は「われわれ」となってしまう。異質なのは準拠すべき〈聖なるもの〉をもったクロトカヤであり、〈聖なるもの〉をもたない自分と人々は、本質的に変わるところがないことが突然分かるのだ。彼は、自身が「人々」から受け入れた愚かさが、クロトカヤがもっていた誠実さや潔癖さ(〈聖なるもの〉)を打ち砕いたことを知った。クロトカヤがこの世界から持ち去った「聖像」はまさに、〈聖なるもの〉のシンボルとなっている」
「読者にとっては、質屋が責任逃れをしていることよりも、質屋の信じた世間的価値、自分たちも感染しているかもしれない「因循姑息な精神」のほうがはるかに切実である。よく知られているように、『おとなしい女』という小説は、モスクワ出身のマリヤ・ボリーソワという貧しいお針子が、アパートの最上階の窓から飛び降り自殺をはかったことに想を得ている[…]この新聞記事を読んだドストエフスキイがなにより驚いたのは、自殺者が聖像を抱いていたことである。彼女は「神様がお望みにならない」からといって祈りを捧げて死んでゆく。一見、単純に見えるが、ドストエフスキイはこの「おとなしい」自殺について長い間考えをやめられず、まるで自分に罪があるような思いに駆られる。自分がボリーソワを死に追いやった〈罪ある世界〉の一員と感じたドストエフスキイは、『おとなしい女』の読者にもクロトカヤの自殺に責任があると感じさせるように、チャンネルを合わせているのだ」
ここで因循姑息と訳されている語 косность は、米川訳では「蒙昧」、小沼訳では裁判官のくだりで「沈滞」、そのあとでは「惰性」と訳されている。косность を単純に訳すと「保守性」が第一義のようだ。因循姑息とは、古い習慣に頼ってその場をしのごうとすること。
「最後の「因循姑息な精神」は、明らかに前回より抽象度が増している。それは、ここでは「自然 природа」の反意語として、人間の社会に孤独を呼び込む根源、あるいは、人を愛さないようにさせている根源として示されている。人を見下す傲慢さ、暴力、人を素材にした愛の「空想」、あるいは相手を無視した自分勝手な愛の「意識」、あるいはそのなかに潜む「嘘」にまで意味は拡大してゆく。人が人を愛するのが「自然」であれば、それはまさに不自然な精神である。質屋にとってこの言葉は、クロトカヤのいない孤独感を誇張しただけかもしれないが、ここまで物語を読みすすめてきた読者の側からみれば、クロトカヤが死んでゆく、まさにその根本原因を示すものとして読みとれる。この最後の「因循姑息 косность」は、『おとなしい女』という物語全体の意味を一語の中に吸い込んでいるのだと言っても過言ではない」
「ドストエフスキイ自身はあるところで人間のさがを、メフィストフェレスの言葉をもじった文章で表現している。一「わたしはつねに善を希求し熱望しながらも、行為の結果として悪しかもたらさない全体の部分の部分なのだ」。おそらくこれが質屋の実体であり、クロトカヤがさまざまな傲岸な「問い質し」によって得た結論ではなかったか。行為が善意に発していて、その善意を信じきっている人間の嘘に彼女はどうしてもなじめなかった」
また、山城が引用するおとなしいと訳されたロシア語のクロートキイの意味について、「おとなしい、やさしい、柔和なと訳すほかない言葉だが、単に、無口だとか、温順柔和で心やさしいとか、口答えすることなく従順に従うという意味ではない「激越なものが中に秘めてあるところでその激越なものと抗争する関係」にある[…]キリストやソーニャやリザヴェータのような「柔和なる者」は、外見は、貧しさ、苦しみ、悩みをじっと耐え、身を屈めて幼子のように小さくなって生きているが、その内には獰猛で「激越なもの」を秘めている。しかも、その激しいものが普良さそのものなのだ」 この箇所も、まずは知っておくべき知識として参考になった。
この小説を読んでまず感じるのは、質屋への激しい嫌悪感だ。そこから気がつくことは、その嫌悪感は同族嫌悪ではないか、私と質屋が本質的にまったく違うと言えるか、という問い。ドストエフスキーを読んでこんなにはっきり「自分を省みろ」と言われた気分になるのはおそらく初めてで、ちょっと驚いた。この問いの先に、ドストエフスキーが表したかった「私が殺した」という感覚があるのだろう。そしてもうひとつ、おとなしい女はなぜ死んだかではなく、どのように死んでいったか、死に至るまでの苦悩を想像しなくてはならない、ということ。彼女の傲岸さと高潔さ、「準拠すべき〈聖なるもの〉」を持つこと、自分自身を愛するように人を愛そうと本気で思うこと、それが打ち砕かれること、暗く長いロシアの冬……。質屋の目を通して描写されるおとなしい女の歪んだ像から、「これなくしては人類が精神的な高みに立つことのできないような正義」を貫いた傲岸さ、それを内に秘めたおとなしい女という像を各々の読者が立ち上げること。そこにこの小説の価値がある。そしてそんなおとなしい女たちを死に追いやる世界の一員としての私、という意識にも。
今後の課題としては、このおとなしい女とソーニャ、リザヴェータの像が自分の中では重ならなくて、そのギャップを確かめるためにも『罪と罰』を読み返したい。