会話がUNOだったら、どんなにラクだろうか

馬鹿にする意味ではない。会話はキャッチボールではなくUNOだというアナロジーが紹介されていた。任意の会話がUNOに見えているとしたら、そのUNOのなかにはかなりがんばっているひとがいる。だれかの思い描く「UNOみたいなもんだ」とか、「キャッチボールみたいなもんだ」とか、そういう認識のために、とまでは言わないけれど、そう見えていたら幸せ者だと思う。皮肉でも嫌味でもなく。会話には切先がある。その〈切先なるもの〉は、UNOの場札でフェイスアップしているカードに見立てられるかもしれない。でも切先にルールは通用しない。ルールが通用しないから切先だと照射することもできる。次は数字のカードだの、おなじ色のカードだの、シャッフルワイルドだのなんだの、そういう規定的なカードはあまり用意されておらず、そのゲームの親でもないやつがいきなり順番フルシカトで『ブルーアイズホワイトドラゴン』を出して、おいおいと思う間もなく即座に『かがやくリザードン』も出し、場が白けたのでおなじみの『ジョーカー』を出してみたが反応が悪く、『花見で一杯』でお茶を濁す、ということが平気であり得るし、それらはすべてどうでもいい。なにか特別な意味を見つけてもいいし、八切りで流してもいいし、イレブンバックでアドホックにナーフしてもいい。あるいはそいつの花見で一杯に対して、たまたまじぶんの手札に『月見で一杯』があったから出して盛り上がってもいいし、わざわざ出して遣ることもないし、出したのに気づかれなかったり、出したら出したでカブセが嫌がられたりもする。むじぃんだ、これが。対戦相手のなかに、なんでも八切りマンがいるかもしれない。困るんだよね、出せども出せども切られていくと。ただ、でも、べつに困らなくてもいい。ほんとうのところは自由だ。突きつけられた『ドロー4』はじぶんもドロー系を重ねれば受け流せるという謎ローカルルールを強要してくるひともいれば、そんなルールは「公式に」存在していないとか権威を持ち出して食い下がるひともいる。会話の切先は未来的である。何にでもなれるし何でもない。撥ね、止め、うねり、うごめき、香ったり匂わせたり、上がったり下がったり、グルーブやリズムがある。せいぶつのようだ。会話はせいぶつだよ、これは何も言えていないから虚しくなるけれど、あえてもっと言ってしまえば、キャッチボールもUNOも人間がやってる以上はせいぶつみたいなところがある。じゃあ会話は何にたとえてもいいのかもしれない。会話は花鳥風月だ。会話は生き死にだ。会話はコミケだ。ぼくは会話が終わってほしくないので、UNOなんだとしたら、『ドロー2』と『ドロー4』を100枚ぐらい事前に持ち込んで、和了りそうなひとに誰の順序もSKIPしてドローしてよと配り続けるキモくてめんどうなプレイヤーだろう。