Re:ココノツから始めるイノチ生活[完]

土曜にすることといえば、イノチココノツに憑在すること、だけになっていた。それがいつからなのかまったく覚えていないのだけれど、それさえあればしあわせで、満ち足りていて、ミスター正解者で、平日をなんとか渡っていけて、たぶんそういうひとがぼく以外にも何人かいて、そういう亡霊たちの憑在に継ぐ憑在で、ホーンテッド・イノチココノツになっている時間帯が増えていった。

亡霊は再来する。亡霊だからまた来る。亡霊だからいちいち「行く?」とか聞いたりしなくて、そういう意味で亡霊は(過去的ではなく)未来的で、来週も、また来週も、あそこにいけばきっと誰かが漂ってるんだろうという非日常的な眩しい希望があって、それは〈常連客〉〈固定客〉のような強烈に規格化された存在としてあつかわれる観念ではなく、ほんとうにただ憑在していて、存在してるのかどうかもあいまいな、居ないときでも居るような気さえして。そういう不思議な現象はメヰドさんもおなじで、先週のねずのツッコミが完璧に再生されたり、来週の編ちゃんの笑い声がもう聞こえてきたりする。「居る」と「居ない」の明確な区別はどんどんあいまいになっていって、みんな居た、と言っても過言ではなかった。友達とか、親友とか、推しとか、そういう固定的な関係の容れ物にはいるようなものではなく、究極的な「居る者同士」が心をつなげて、ことばを交わして、笑っていた。

猫の命は9つあって、そのうち3つであそび(plays)、もう3つでうろつき(strays)、最後の3つで居てくれる(stays)、という英語のことわざがあって、店名のイノチココノツはそれに基づいているらしい。ぼくは、あそぶのが好きで、うろつくのが好きで、居るのが好きで、8体いる猫の亡霊たちのどれかに(どれにも)うってつけで、そのどれかでいることや、そのすべてが等身大でしかありえないことをちゃんと肯定してもらえる場を、つくってくれていたと思っている。あかりさんが飼ってくれていたのか、あの場所の地域猫だったのか、野良猫の集会だったのかわからないが、にゃーにゃー騒がしくさせてもらったなあと、ほかのなににもかえがたい恩を感じて、アメージング・グレイスが流れてくる。

等身大というのはむずかしい。肩の荷物をおろせと言われておろせるものではないし、自力でどうやればいいのかさえわからないのに、イノチココノツに居れば、実践しているあかりさんを見ていたら、等身大に向かっていける確信めいたものが心に湧き上がってくる。すこし行き過ぎてしまったひとにも、あかりさんが相手を信じて単刀直入にことばをかけて、ハッとしたのち「ごめん」となって、周りが見られるようになってみんなでたのしめるようになる。こういうことは当たり前じゃなくて、ことばが「上から」じゃないから、距離感や態度をミスってしまったひともじぶんを省みることができる。

そういう等身大の影響は、むしろ近くで見ていたメヰドさんのほうが受けているのかもしれないと、ねずの読み上げた手紙とか、編ちゃんの書いたことばから感じられた。泣くのを我慢していてちゃんと文言を覚えていないのだけれど、あの手紙には「じぶんを大切にできなくなりそうなときにあかりを思い出す」という主旨のことばがあったような気がして、夜間飛行しがちなねずの心を照らす"あかり"なんだと思って、ふだんだったらすぐ言うけど空気を読んで言うのをやめた。編ちゃんの文章は「ひとの中身は意識しないと成長しないと思う」という真理めいた前置きをしたうえでイノチココノツで成長できたことを記してあり、奇跡みたいな成長をすこしだけ追体験させてもらえた。ふたりともほんとうによかったね、とじぶんのことみたいにうれしくなる。ほかのメヰドさんの話も聞いてみたいと思った。ぼく自身は、あかりさんに「出会った頃よりたのしそうで生き生きしてる」と言ってもらえて、じぶんのことってぜんぜんわからないけど、不思議と納得するというか、たぶんほんとうにそうなんだろうなあという実感がある。ぼくもたくさん成長させてもらえていた。

そのあれやこれやが、もうぜんぶ終わってしまったらしい。

あかりさんの思い描く「メヰド」を追求するために力みながら全身全霊で模索していたのが2年前で、いまと比べると当時は「奪わせない」みたいな覇気があって、そういう考えかたをするだけじゃなくて、コンセプトで終わらせるんじゃなくて、ちゃんと実践しようと突き進んでいるところに共感した記憶がある。ほかにも、前の店や、前の前の店のあかりさんのプレースタイルと「ちがう」ことでがっかりしているお客さんを見たことあるし、そういうひとに対しても諦めず、見下さず、怖気づかず、じぶんのなかにあることばをまっすぐ返していたのが印象的だった。

ロゴに花が咲いたり、お客さんもメイド服を着たり、聞いた全員がひっくり返るようなところからすごい口説きかたでメヰドを採用してきたり、毎回ぜんぜんちがうおもしろワードが生まれたり。ひとつワードが転がったら、運動会みたいなあわただしさで改変されていって、決定版ができたら使い倒して、あたらしく入店したひとにいちからぜんぶ説明して、また笑って、次週にはもうだれも使ってないけどまたあたらしいワードが転がってくる。この世でいちばんたのしい脳トレみたいな。ぜんぶおもしろかった。ぜんぶたのしかった。ぜんぶの思い出が、あの世に持って行くにふさわしいものだった。

店を畳んで、次の道も茨の道だろうけれど、やれるだけやって、のぼるだけのぼって、またあたらしい景色をみたらみんなに教えてほしいと思う。イノチココノツの亡霊たちは、きっとどこかであそんで、どこかでうろついて、どこかに居てくれる ――「あかりです!」とまた嘘つきながら。