死から孤独を分離している

秋葉原のジョナサンで、深夜二時、レールから外れたというか、そもそも敷かれてないから外れもしてないヘンな恋バナをしていた。紆余曲折あって、病床の孤独感を最悪なものとして措けば、結婚したほうがいいぞ、という話に不時着する。恋バナジェットの機体は激しく損傷し、修理の余地は無かった。

一方で、よく考えてみると、私にとって死は孤独ではない。事実上は孤独だが、先に星になって死んだ友人たちや祖父と会えると信じる宗教心あるいは神学的な確信が、孤独を無効化する。早稲田大学から輩出して、キャリアをつんで、結婚して、自己破産してからまともに会話できなくなって、正月も芋焼酎を飲みながら「純、元気か」しか言わなくなって、「またな」とたくさんハグはするけど精神的な交流に挑みきれず、コロナ禍で死んだ祖父と、彼の人生をはじめっからぜーんぶ聞く時間が、ほしい。そう思えば思うほど、死から孤独性が分離していく。むしろ遺された側に宿った孤独性を見詰めながら、ぼくは勝手に息をやめるだろう。

ぼくには結婚の予定がない。三十二歳になって、機会がまったくないといえば嘘だけど、このひとと人生をやっていけるかという判定は至極シビアなものだし、それは相手にとっても同様かそれ以上だと思う。見送るし、見送られる。そのトランザクションの正常性や健全性に希望的な意味合いはある。独身というのは、そういう意味でほんとうに楽で、軽くて、生きた心地がしない。今日ぼくが稼いだ金を、今日ぼくのためにつかうことの小規模なサイクルに、もはやなんの刺激こそないけどやはりそこそこ感動する。

たぶん独身で、孤独で、死ぬ。アパートの一室とかで、役所のひとがティピカルに第一発見する。迷惑をかける。まあ迷惑はどうせかけるから開き直ったうえで、孤独死をする。その頃には孤独死なんて珍しいことでもなくなっていて、報道もされなければ、誰の心も振動させない。ふつう。最期にどう思うかまで確定することはできないけれど、かなしくて、くるしくて、なんにもなかったなって人生の無意味さを呪って、過去に手を握ってくれたひとのぬくもりを思い出して、ありがたかったなあと微かに癒やされて、死んでいくのかもしれないと思う。

孤独死の局面は、想像するだけでもいたたまれない。だからもちろん結婚したほうがいいという不時着結論に異論はなかった。でも、結婚でも未婚でも、ぼくは死から孤独を分離できるのかもしれない。先に逝ったひとらが延べる手を取れるのかもしれない。そのうちこの文章を読み返して「妄想乙」とかじぶんで言い始めるかもしれないが、死んだ祖父とまた話せたら、と期待することがたったひとりじぶんに許されさえすれば、死というのはだいぶ緩やかな出来事になりそうだ、すくなくともぼくひとりに限った話でいえば。そのときのぼくに遺族がいる場合は、なんにも思いついてないけど、遺産相続争いごっことかしてフロアを沸かせてほしい。