「無礼講でいいよ」をもっと年齢相応的にする

今年は33才の年で、昨日は新卒のひとたちとまあまあ交流して、相手からしたらじぶんはどれぐらいおじさんで、どれぐらい年上として怖くて、どれぐらい年上としてキモいのか、ひやひやしながらコミュニケーションした。

年をとると、相対的に、ことばが気遣いをリクエストしてしまうようになる。「無礼講だ!」とか言って、いいひとぶって線引きしたと思っても、礼儀礼節の形式性をリクエストしたひとのようになる。むずかしすぎる。そしてその現象に無自覚で、むしろいいことしてると思ってしまっているから、まわりが言い出しづらく、指摘しづらく、防御的なコミュニケーションで遠ざかってしまうこともよくある。

ことばを、年齢相応的にしないといけない。年の離れたひとに対する形式的なことばを、さらに形式的に言い換えるような発明をしなければ、無用なリクエストが生じたり、ときには攻撃的に思われてしまう。学生のころの「バカじゃね」より、33才の「バカじゃね」のほうが強くて、痛くて、嫌な感じにさせる。

礼儀というのは形式主義的な部分もあれば、実は自己発明的な部分もある。そのダイナミズムを理解したうえで、年下に対する、新卒のひとたちに対する、新形式を発明しながらことばを選び、気遣いのリクエストを減らし、攻撃的な響きや臭いを事前に処理する。