つよく掴んで離さないようにしないといけないはずなのに、と思うことばかり

あらゆるものごとは、物語の最初のページと最後のページがそうであるように、いきなり途中からはじまって、いきなり途中で終わってしまう。得体のしれないなにかの「匿名的な継続性」があり、その継続性のことがよくわからないままぜんぶが終わっていく。

いまいっしょに居てたのしいひとたちと、残りの人生で、もしかしたらもう二度と会わないかもしれないし、数時間しかいっしょに居ないかもしれない。人間関係というものは、いつの間にか出会ってはじまり、しばらく関係があったのちに、いつの間にか会うこともなくなって終わる。ぼくの、ぼくだけの人間関係のはずなのに、ぼくの知らないうちに継続性は匿名的に消失している。

感情論的には、この事実は哀しげで、でもいまはむしろそのブルースこそがぼくの人生の流儀になっている。コンセプトとしていえば「stay(滞在)」である。ホテルのような、知らないだれかが知らないまま一泊していく知らない場所。かぎりなく匿名的なステイ。人間関係は滞在的である。

そう思うことにしたのは十年以上も前のことで、だからこそぼくは、「いま関わっているひと」のことを大切にしたいと思うし、ステイしているあいだだけでもじぶんの存在を相手のために捧げたいと思うし、ぼくが御すことのできない継続性の終わりに向けて走っていきたいと思う。一生宿泊していたいホテルに、一生は宿泊できない不可能性とちゃんと向き合って、永久を期待しながら、永久という夢を見ながら、残り何泊か知らない最高の居心地のホテルに泊まっている。相手もこのステイが最高だと思ってくれていたらうれしい。

でもそれが永ければ永いほどうれしい。知り合って六年以上もたつ親密な仲のひとに、いつだったかむかし、「私のこと掴んで離さないで」と言われたことがある。本気だったし、現実に六年というのは2,000泊 のステイを超えている。記録だけ見ても大記録だ。そういう親密な気持ちを正直にことばとして表示すること自体が、掴んで離さないようにする行為なんだと思う。

とはいえやっぱり恥ずかしいし、なんて言ったらいいかわからないし、相手がそう思ってくれてなかったらメンブレするし、じぶんの気も変わるかもしれないから責任とれないし、みたいな保守的なことばっかり考えてしまって、「私のこと掴んで離さないで」なんてことはなかなか言えない。そうやってなかなか言えないまま、もう次はないかもしれないと焦る。駅の改札で手を振ってバイバイするたびに、お店でどちらかが先に会計して別れてしまうたびに、これが今日が実は最後のステイだったらと思って胸が痛むし、次があることを待望している気持ちが相手に届けと本気で祈る。