勉強したり、学習したり、経験を抽象化するなかで、ひとはできることが増えていく。できるようになると、まだできないひととのあいだに変な距離を感じるようになる。それは見下しなのかもしれないし、哀れみなのかもしれないし、不憫とか憐憫とか、「まるで過去のじぶんを見ているようだよ」というワンアップ気取りかもしれない。わざとらしい思い上がりのひねくれ、か。
子育て中、じぶんの子が、よその子と喧嘩して、手を出してしまったとする。なにか叱らねばならないと思って、反省させなきゃと思って、改善・教育しなきゃと思って、でもいい方法が思いつかなくて、いらいらして、つい「なんでほかの子と仲よくできないんだ」と怒ってしまう。ふつうだったら泣き出してしまうはずの子どもが、今日は食い下がって「お前は何十年も生きててできるからそう言えるんだろ」と冷静に反論してきたら、きっと驚くかもしれない。
できることが増えて不寛容になるのならば、できることなんか増えなくていい。でもそうしたら、布団にお漏らしをして、一桁の掛け算に苦戦して、授業中にモンハンすることを悪いことと判断できなくて、姉と殴り合いの喧嘩をしているヒステリックな母親から定規を投げつけられる日々に戻るのか。それはすこしいやだな。できなかったことを、できるようになりたいと思う。
できるというのは、技術の獲得である。技術はもともとはすばらしい。技術とは、ひとつの善をこの世に実現するアウトプットだと考えたら、愛する技術とか、平和の技術とか、ていねいに暮らす技術とか、だれかのためにライフセービングをする技術とか、ことばだけで理解をおすそわけする技術とか、すべてほんとうはすばらしい。できるというのは、いいことだ。
だからこそ、「できるだけ」ならよかったと思うのに、できるということが精神に関与してくる。悪い方向に影響すれば、ひとを見下したり、思い上がったりするし、こどもの立場を考えずに酷いことばで殴ってしまうこともあるし、最終的にはユダヤ人を何百万人と殺せてしまう。ホロコースト、つまり全てを焼きつくす、というのは、焼きつくすことができる技術がひとを思い上がらせた側面もあると思う。ぼくだって穏やかな人生ではなかったので、手元に刃物がなくてよかったと思うことが一度もなかったとは言えない。わかるかな。
できるとかできないとか、技術を持っているとか持っていないとか、それ自体から距離をとって生きたい。いわゆる「謙虚」ということなんだろうけれど、そういった規範的なことではなくて、できるということが精神に関わってくることを最小限にしたい。化学をすこし勉強すれば覚醒剤がつくれるようになるけれど、そういったインパクトのある技術習得を、〈昨日の天気〉ぐらいどうでもいいものにしたい。去勢したい。
本題というか、タイトルに戻る。どこまで要求してよいか。ぼくの答えは、要求すんな、となる。もっと正確に言えば、要求が精神と関わっていない(すくなくとも悪関与ではない)場合は、多少のリクエストを取引するかもしれないが、その技術と精神がよくない関与にあたる場合には、絶対に要求するな、という自己ルールで生きている(生きていきたい)。さもなくば、すべてを焼きつくしたっておかしくもないから。
にんげんは一個の目的である。手段なんかではない。カントがそういった*1。これはこれではっきりしすぎだとは思うけれど、ルールとしてはとてもよい。まだできることがすくない子どもも、まだできることがすくない部下も、まだできることがすくない友人も、もうできることがすくない年上も、そのひとを手段にしてはいけない。にんげんは目的だ。なにかじぶんにとって価値があることを実現するために、他人のできないことを指摘して、それを改善させようなんて思わないでいたい。
まあ、もちろん現実的には、会社で上の立場にいるから、いつか若い社員が入ってくれて、〈目に余る〉ような未熟な技術を見かけて、会社の価値を高めるために、社員の価値を高めるために、利益追求のために、「それをこうしてほしい」とリクエストする日もくると思う。きっと手段にするんだろう。そのときは、「こいつの話を聞いておけばスキルアップして転職とかに利用できそうだ」と手段化してほしいぐらいだけど。理想家として言わせてもらえば、いつかそういう会社じゃない会社がつくれたらうれしい。
あるいは将来じぶんの子どもが「ぱぱ、なんでひとを殺してはいけないの」と質問するようになったら、茶化すことなく、道徳的な模範解答でお茶を濁すことなく、「どうかひとがひとを殺せることとじぶんの精神を結びつけずに生きてくれ」と祈りながら、「だれかがだれかの手段になっちゃうことはよくないことだってみんなが思っていたら世界はきっとよくなるっておおくのひとが信じているからだよ」とギリギリで答えるしかない。これにちゃんと反論してきたら、成長の証だと思えるはず。そこまでいったらいっぱい議論できてふつうにたのしそう。
「できる」ということの、本来の善の部分のみを蒸留して、そのアウトプットにのみいそしみ、それを自己実現だの、自分らしさだの、優越感だの、万能感だの、満足感だの、自信だの、ハイスペックだの、優良物件だのなんだのの精神と結びつけずに、技術とともに生きていく。
それ以前に、できないことがおおすぎるので、今日も勉強する。
*1: "Nun sage ich: der Mensch und überhaupt jedes vernünftige Wesen existiert als Zweck an sich selbst, nicht bloß als Mittel zum beliebigen Gebrauche für diesen oder jenen Willen, sondern muss in allen seinen sowohl auf sich selbst, als auch auf andere vernünftige Wesen gerichteten Handlungen jederzeit zugleich als Zweck betrachtet werden. Alle Gegenstände der Neigungen haben nur einen bedingten Wert; denn wenn die Neigungen und darauf gegründete Bedürfnisse nicht wären, so würde ihr Gegenstand ohne Wert sein. Die Neigungen selber als Quellen des Bedürfnisses haben so wenig einen absoluten Wert, um sie selbst zu wünschen, dass vielmehr, gänzlich davon frei zu sein, der allgemeine Wunsch eines jeden vernünftigen Wesens sein muss. Also ist der Wert aller durch unsere Handlung zu erwerbenden Gegenstände jederzeit bedingt. Die Wesen, deren Dasein zwar nicht auf unserm Willen, sondern der Natur beruht, haben dennoch, wenn sie vernunftlose Wesen sind, nur einen relativen Wert, als Mittel, und heißen daher Sachen, dagegen vernünftige Wesen Personen genannt werden, weil ihre Natur sie schon als Zwecke an sich selbst, d. i. als etwas, das nicht bloß als Mittel gebraucht werden darf, auszeichnet, mithin so fern alle Willkür einschränkt (und ein Gegenstand der Achtung ist). Dies sind also nicht bloß subjektive Zwecke, deren Existenz als Wirkung unserer Handlung für uns einen Wert hat; sondern Objektive Zwecke, d. i. Dinge, deren Dasein an sich selbst Zweck ist und zwar ein solcher, an dessen Statt kein anderer Zweck gesetzt werden kann, dem sie bloß als Mittel zu Diensten stehen sollten, weil ohne dieses überall gar nichts von absolutem Werte würde angetroffen werden; wenn aber aller Wert bedingt, mithin zufällig wäre, so könnte für die Vernunft überall kein oberstes praktisches Prinzip angetroffen werden."『道徳の形而上学の基礎』第二章(https://www.projekt-gutenberg.org/kant/sitte/chap003.html)