朝
日中、極薄の月を見つけることができてよかったと思える。何年も目線は変わらなくて角度の調整ができなくなっただけなのかも。必要と不要を仕分けして満足して気付けばまた混在している。とりあえずを繰り返すたびに得られる安心。責任を委ねても責任を委ねた責任を背負うことになるから安易に外部委託をする気にはなれない。知らず知らずのうちに頼っている部分だけで十分。変化していくものだし、過去の自分の全ての思考を管理できるわけではないから流れていく場所に放流していたけど、残るということを意識した時にどの言葉を選ぶのかを試してみる。自己分析しようとして出した言葉と、捨てる前提で出した言葉すら信用できない。本当に私の中からよく出てくる言葉に気付くための
昼
ユーモアの乗っていない鬱屈は話すのも聞くのも苦しい。特定の誰かに聞いて欲しいわけでもないのに目のつくところに吐露する行為、直接ぶつけるよりも狡い感じがするけど、それくらい保険を掛けないと何もできなくなる。この文章も結局は放流する。弱さを知っているからといって強いわけではなく、ただその方が納得がしやすい。ちゃんとしていない人の方が多いんだし私もちゃんとしなくてもいいかなの精神と大多数に流されたくないの精神、全肯定と全否定だけで罷り通るならここまで複雑ではないはず。
オーバーサイズの厚手のニット、布団を着ているみたい。
親切を丁重にお断りすると敵になるキャラ、元から敵のキャラよりも厄介。
安い天然水、水道水みたいな味がする。
夜
言葉を受け取る時に粗めのフィルターと細かめのフィルターの2つで受け取る。ひとつは、言葉にどんな些細なザラつきであっても歪につまみ上げて難癖をつけてブチギレる細かめフィルター。もうひとつは、どれだけ純度の高い嫌味や悪意を込められていても話半分にそのまま通り抜ける粗めフィルター。この使い分けによって、送り手と受け取り手のズレは常に大なり小なり起こっているもので、正しく投げる受け取るというのは幻想だと感じる。紆余曲折あっても最終的に投げたいと思ったように投げ、受け取りたいように受け取るものなので、善意にしろ悪意にしろ、受け手の器の広さに入るサイズや速度をチョイスしたりしなかったりすることで、わざとズレを引き起こして、悪を善に、善を悪に転じさせることができるとも言える。私は正しく理解しているというのはどこまでいっても自分の中の世界なので、外部に通用するかは別。理解し合うということはとても難しい。最終的に選んだ言葉はそれなんだという結果は残り続ける。
足利尊氏「明日また会うし」
息継ぎをせずに長い文章を書き続けると途中どんな流れで進んできていたか分からなくなってしまう感覚が少し面白くて置き去りにしてしまう。
緩急の付け方が下手なのだと思う。怠惰だからコッチと決めた方にばかり偏ってしまって、現在の私は間違っているのでは?と気付くまで地団駄を踏んでしまう。短時間でいろんなところを転々として曖昧な楽しかったなぁを味わっている時の方が幸せそうにしている。
怒っているの?とよく聞かれる、怒っているのかもしれない。普段温和な人が怒ると怖いというのは、その人自身じゃなくてその現象が怖いだけでしょう。ユーモアの欠片もない、ただ相手の傷つけるための言葉のレパートリーなんか無闇に増やしたくはないから、ただただ無愛想にコミュニケーションを遮断する。怒っている人への対処法においても、距離を置く以外知らない。カロリーオフ。
漠然としたToDoはあるけどその過程をちゃんと作っていないから手っ取り早いコンテンツに手を出すんだろうな。1つの物事に時間をかけられる人はとても素晴らしい。元々得意じゃない私にも少なからずそんな時期があったはずだけどどこかに失くしてしまった。
毒を制するために持っているわけではないんだけど。
あとがき
不安の理由を探して安心しようとしているの、とても燃費が悪い。ユーモアの是非で物事を測っているのが見て取れる、もっと具体的なものさしを使うと自分自身も苦しくなるから、あえて曖昧な指標を使っているのかもしれない。喜怒哀楽の怒と哀はネガティブに取られがちだけど、ちょっとした言葉で加工すればどれも味わいになるはず。という試みを感じる。材料が粗悪だと調理にも限界があるよ。