まえがき
思い出した。やはり私の脳は嘘をついていた。正しくは『こういう人にはなりたくないなばかりかき集めていたら結局何者にもなれないのではないか』という思考だ。
(このメッセージは2月14日に収録)
朝
理不尽はタイミングを選ばないから理不尽と言われていて、糾弾する気にもなれない。
何かを成し遂げようとするにあたり、過程を列挙していると途中で余計なものが混じって気分が悪くなる。私は誰の邪魔もしたくないし、誰からも邪魔をされたくないというだけなのにどうしてこうも上手くいかないのか。
業が煮え切って斬り返すと、斬り返したシーンだけが永遠に再放送される。
現実はもっとシンプルなのに私が色々なものを混ぜたり増やしたりしているせいで複雑になっているだけなのだろうが、どうにも。
昼
膨らみ過ぎた不安に対して現実が上回ることはなく。
最近来た新人の方が”怠惰”という言葉を日常的に使っていて良かった。私の好きな言葉。
贈り物はいつしてもいいので。贈り物をする。
夜
話すにも聞くにもつまらない思考しかよぎらない。何をしても誰にも咎められない世界で善良に過ごしていることに呆れてくる。
一歩前に進むたびに踵の裂傷が地面に触れ口元が歪むが、誰もマスクの下に興味はない。私は当たり前の側にはいなくて、誰もが不思議に思うか見て見ぬふりをする。
傲慢さの使い道を履き違えないことが私の心情にとっては最たる救済で、それを違えた時には私は私でなくなっている。
比べることに意味はないが、誰かが比べなくては誰を救うべきかすら気付けない。万人を平等に扱えるのは自然だけ。
ただだらだらと垂れ流す三流河川。
あとがき
たまたま色々な理不尽が重なっただけで、不幸中の幸いなのは私は加害者ではなくただただ被害者であるということ。加害している者は間違いなく存在するけど、特定の人物でなく組織の空気であったり、過去の負債であったり、純粋な欲であったり、糾弾することは難しい。
和解を行うには、相手が聞く耳を持つ相手であるという厳しい条件がある。未だ争いがなくならないのは、話すばかりで聞いていない者がたくさんいるからというだけ。
中途半端なコミュニケーション能力を取得した人類、所詮は動物であり、進化ではなく、ただただこういう生き方しかできない生き物。
生き延びるだけでは満足のできない現代社会、納得のいく人生を歩める人はどれほど。