まえがき
縁を切った友人から不快なことをされたり、悉く私の行動が裏目に出て、私も他人も不快になってしまう夢を見た。脳は私に厳しすぎないか。1日の始まりと終わりって生きるうえでかなり重要なパートだと思うんだけど。自分で自分の精神を苛むのはやめて欲しい。
朝
土日で蓋をして、次に蓋を開けて平日を見る時、イヤなものがたくさん目について咽せる。ただでさえ今回は土日を療養重点で運用していたので、貯蓄が少ない。心身ともに燃費が悪い。オンオフがスイッチ1つならば。
昼
食欲がある、というのは便利なステータスチェック項目。断食は修行にもなるくらいなんだから食えるに越したことはない。
夜
明確に明日以降の私のために行動した。ぼんやりとした欲求はあるけど、突き動かすほどの衝動になっていないなら優先度は上げない。強い自我を放出する機会を待つ。
せっかくおしゃれなハンバーガー屋さんだったのに客足が少ないせいかポップ体フォントの張り紙でデカデカと『モーニング・ランチもやってます』。値段設定が強気だっただけにそういう弱さが垣間見えてしまって。
簡易的な全能感、こういう感覚は得ようとして得られるものでもないので疑わずに乗っかっておく。早朝の私はかなり理不尽で可哀想な情緒だったはずなのにもう他人事。まぁ今の私が幸せなら言うことはない。
あの頃はよかったという感覚がないので、一時的に現在が理不尽な苦しみを感じていても過去には縋らない。ただただ現在に対しての怒りと、選択を誤らないための検討。誰かや何かに縋るのは悪いことではないけど、それありきになってしまったら、本当にどうにもならなくなった時に、救いがゼロというのが明確になってしまう。私は本当にダメなところに辿り着く前に、もうダメだと喚きながらグズグズと日々を更新し続ける執念がある。もちろんその時はそれどころじゃなく、呪詛を撒き散らかして必死に暴れている。そしてその環境からの脱却に成功すると過去を踏み躙り慢心をする。終始、自分の頭の中で破壊と再生が繰り返されているだけで、傍から見れば大したことがないように見える。実際大したことはない。当時の私は苦しんでいたかもしれないけど現在の私は特に苦しんでいないので。
私は私にそれなりの自信があり、本当に思っていることは言っていいと思っている。それを認められない人がいるとすれば、そちらの方が自己満足の押し付け。主張は自由だし、主張を咎めることも自由、ただ絶対にどちらかがそうあるべきだとは思わない。
あとがき
読み返すのも面倒な支離滅裂かつ冗長な文章。出力している時だけ気持ちよくなってるタイプの行為。
思考を停止して自我を他者に押し付けることが幸福に結びつく感性は苦手。自分の欲求を満たすために他者を必要としている人間は要介護と同義。自分の面倒は自分で見るのが大前提で、手を差し伸べてくれる人がいるのは当たり前ではない。無償の愛はたしかに現実に存在するが、それを損得勘定の打算で売り買いした時点でその人の価値は暴落。
こんなにも理性だ本能だの理屈をこねくり回しているのに愛のことは高尚なものとして取り扱っているな。自分の中に明確に見つけられていないからなのかもしれない。