過去の日記(https://tmp.notepin.co/)をこちらのサイトに写している。
以下、本文。
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こたつでパソコンをいじっている。やろうと思っていたことはいろいろあったはずだが、とくに何もせず一日が終わってしまいそうだ。
とりあえずの成果としては、銀行やクレジットカードなどの重要な書類を新しいファイルにまとめ直したこと。それから先日ひと段落した家庭教師の仕事で使った書類をまとめたり。あとは、いろいろなところに散らばっていたパソコン関係のケーブルや、薬箱に入れておく絆創膏や消毒液などの整理をした。なんか、もしかしたら今日は意外とやったほうなのかもしれない。といっても家の片付けはまだ終わらないのだけど。
一日中なにかしらの動画を見たり聴いたりしていた。今日に限らず家の中で過ごしている時間のほとんどはネットに触れている。膨大な量のコンテンツ。自分に関心のある分野だけでも一日費やしても消費しきれないくらいある。それ以外も含めたら、ちょっと想像できないほどの天文学的な量になるだろう。もちろん全てを把握することなんてできない。
膨大すぎるからこそ特定の分野のコンテンツにしか触れなくなっていく傾向がある。フィルターバブルという言葉もあるが、ネットは構造的に自分の見たい情報しか見えなくなっていく仕組みになっている。
でも、ネットでなくたって、そもそも自分にとって不快な情報や自分が共感できない立場や価値観の意見にわざわざ触れようとは、ふつうなかなか思わないものだ。似ている者同士で集まって異質な者は排除する。そういう人のさがみたいなものを、ネットは助長しているに過ぎない。
しかし、だから良いということではない。むしろ悪い。何が悪いのか。考え方が偏ってしまうこと。自分が偏っていることにさえ気が付かなくなってしまうこと。
とはいえ偏りのない人間などいないのであって、偏ること自体を問題にしても仕方がない気もする。じゃあ何が本当に問題なのかと改めて考えると、よくわからなってくる。
たしかに、偏りが修正されないまま先鋭化していくのは危険な感じがする。他者の排除が実際の行動となって現れるのは恐ろしい。けれども、自分にとって居心地の良い環境を整えている結果として、ある種の偏りが生まれているだけなのだとすれば、ネット上での情報の取捨選択も、たとえば家の片付けなんかとそれほど変わらないのではないかという気もする。自分にとって都合の良いものを近付け、都合の悪いものを遠ざける。同じことをしているだけなのではないか。
問題なのはネットが公的な空間だからかもしれない。いや公的でもあると言った方がいいのか。家の中にいるかのような気楽さで発信できる反面、たった数秒で世界中の人がアクセス可能な場所に置かれるということ。ただし膨大な数の中のたった一つとして置かれるから、実際には、この日記のように、ほとんど他人の目に触れることはない。改めて考えると、ネットはそんな公的とも私的とも言い切れない独特さがある。
人間はどんなときでも本能的に環境を自分にとって居心地の良いものに作り変えようとする生き物なのだと考えると、それ自体を問題にしても仕方ない。だが、自分にとって好ましい環境が世界そのものだと考えるのは、単純に事実誤認であり錯覚なので、他者との間に必ず何かしらの軋轢を生むことになる。社会にはいろいろな人が生きている。そういう実態が見えなくなるのは、やはり良くない。
自分にとって居心地の良い環境を作ること。そのことと、いろいろな人が生きている社会のなかで自分もまたその一人として生きているという事実は、当たり前だけれど切り分けて考える必要がある。というか、人類はこれまでもずっと切り分けて考えてきたはずで、だからこそ、私的な空間と公的な空間では装いや言葉遣いを変えるなどして、自分と必ずしも相入れないかもしれない他者との間で不要な軋轢が起きないようにさまざまな工夫を凝らしてきた。マナーとか儀礼的な作法とか慣習とか。ネットにはそういう歴史的な蓄積がないからトラブルが起きがちなのではないか。
だんだん何の話をしているのか見失ってきたので、もうやめにしたい。
最近、スマホを水没させてエラい目にあったのだけど、なんかストーブの前で暖めてたら、復活した。でも、いつ壊れるか不安だから新しいスマホ買った方がいいよなー、でも今年の春頃にiPhoneSEの3がでるらしいから、それまで待ちたいよなー、というところで迷っている。