2022.03.21 調子の波

ak110
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過去の日記(https://tmp.notepin.co/)をこちらのサイトに写している。

以下、本文。

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雪が溶けて、暖かくなってきて、ああそろそろ春だなあと思っていたらまた寒くなってきて、幻滅している。寒いのはだめだ。絶対悪。寒いと何もかもやる気が出ない。

布団から出て、朝食を食べ、風呂に入って服を着替える。たったそれだけのことに何時間も掛かる。コンタクトレンズを付けるのがとくに億劫。だがメガネのままだと、パジャマを着たまま過ごしているみたいで、どうもシャキッとしない。人間未満というような感じ。で、仕方なく付けた。

もう午後の三時を回ろうとしている。ああ今日も「何もしなかった」という思いを抱えて一日を終えるのだろうか。だが、やる気が出ないのである。どうしてもやる気が出ないから、こうして文章を書いているのである。

不思議なのだが、私には昔からこういうときにこそ文章を書きたくなる傾向がある。

時間を持て余して、ほかにやることもなく、やらなければならないことはいくつか頭にチラつくのだがもちろんそんなこともやりたくない。そんなとき。なんとなく満たされないような、なんとなく行き詰まっているような、なんとなくモヤモヤしているようなとき。

そういうときにこそ文章を書きたくなる。

ところで、私が今こうして文章を書いているパソコンの隣には、大きめのホワイトボードが置いてあるのだが、そこにはいま私が買いたいと思っているモノのリストと値段、それから補修しなければならない家の箇所についてのメモが書かれている。

私の頭は気が付くとすぐにパンパンになってしまう。頭がパンパンになると他のことについて考えることができなくなるので、こうして考えていることをいつでも外に書き出すことのできる手段があると、とても助かる。記憶を外部化すると、内部の容量を空けられる。

思えばこの日記を始めたのも、そのような自分の特性ゆえではなかったかと思い出す。

ホワイトボードにメモを書くのと違って、文章は雑に書けない。ある程度、言葉と言葉を因果関係で繋げて、直線的に書き出していかなくてはならない。

でも文章には文章にしかない良さもあって、それは、執念さえあればかなりきめ細かく自分の感覚を込められるところではないかと思う。

だから、こういうときに書く文章の内容にはあまり意味がない。誰かに読んでもらってどうこうとかそういうことは二次的なことに過ぎない。生活する中で自然と溜まった頭の中の垢のようなものを払い落とす。そういう時間として日記を書くという行為があると考えたい。

人間、できれば調子良く元気に過ごしたいものだ。だが実際に調子が良い日というのは、一週間のうちどんなに多く見積もっても、まあ三、四日が限界というところで、ふつうは一日か二日くらいのものじゃないか。

調子の良し悪しは自覚できる。ていうか自覚できないときはやばいときだ。

知らず知らずに調子が崩れて、負のオーラが自分の周りを取り巻いているのに気が付かなくなっていく。それが一番やばい。そうなると再起にかなり苦労する。自覚できる範囲で、波の振幅を抑えるような工夫が大切だ。

だが、自分の調子の良し悪しを、自分でコントロールしようとしないのもまた大切といえば大切なのかもしれない。

やる気が、出そうと思っても出てこないように、自分で自分の調子をどうにかすることはできない。良いときは良いままに、悪いときは悪いままに、波に合わせて過ごすこと。バイオリズムのようなものに従っていれば、自然と収まるところに収まっていくはずだと信じて、まずは肩の力を抜いて、思うままに過ごすこと。