2022.01.04 中島義道氏

ak110
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過去の日記(https://tmp.notepin.co/)をこちらのサイトに写している。

以下、本文。

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今朝は8:30に起床して8:40に家を出発。完全に寝坊で、目が覚めたのはいつもなら家を出発する時刻だった。ギリギリだった。

7:30頃には起床するつもりだったが、二度寝してしまっていた。休み明けで油断したのだろうか。らしくない。

自分で言うのもなんだか、私は普段ほとんど寝坊しない。休日こそ午後二時過ぎまで寝ているような男だが、なにか予定があると、「絶対に遅刻をしてはならない」という意識が働いて、必ず目が覚める。だから、今日のようなことは滅多に起きないはずだった。

それにしても、朝、10分で身支度ができた自分に驚く。服を着替え、顔を洗い、寝癖を直し、荷物をかばんに入れ、家を出る。いつもなら30分以上掛けているはずだが、尻に火がつけば10分でできるんだなあ。とはいっても、さすがに明日は早く起きたいが。

帰宅してTwitterを見る。タイムラインに流れてきたブログが素晴らしかった。

https://mainennetaro.blog.fc2.com/blog-entry-783.html

この人が生きているなら、自分もきっと大丈夫。中島義道氏は私にとってもそう思える人だった。

何かに悩んでいるとき、自分が考えているのと同じことを、自分が考えているのと同じように深く(もしくはそれ以上に深く)考えて悩んでいる人の存在は、なによりも救いになる。

しかしまあ、中島氏と哲学的な問題意識を同じくする彼と比べたら、私などにわかファンのようなものに過ぎなかったのかもしれない。あくまでも私はエッセイなど軽めの本を読んできただけ。彼がブログで「しょうもない」と切り捨てる人生論的なメッセージでさえ真に受けて励まされているような調子だった。

一時期、哲学的なものにかぶれたことはあったが、今はもう世俗に塗れて平然と暮らすことができてしまっている。現在進行形で問いを抱え続けているだろう彼らと同じ土俵に立つことはできない。

以前、中島氏は何かの本で「哲学病」という言い方をしていたが、哲学的な問題意識というのは、いわば病気のような(もしくは業のような)もので、治ってしまった人や、そもそも病気に罹っていない人(業を背負っていない人)にとっては、視界にすら入らないような無意味なものでしかない。

私は治ってしまった。少なくとも以前のような「症状」はない。当時、自分が何に悩んでいたのかすら今はよく思い出せなくなっている。もしかしたら、数年で治ってしまうくらい最初から軽症だったとも言えるかもしれない。

そもそも私には、彼の言う「死への恐怖」というものが初めからよく分からなかった。今も分からない。死というものを差し迫って意識したことがない。

結局、私は当時からずっと、世俗的な次元で悩んでいたに過ぎなかったのだろう。

いま、彼の本を読んだらどう思うのだろう。もしかすると何も思わないかもしれない。だとしたら、それはそれでおそろしいが。