過去の日記(https://tmp.notepin.co/)をこちらのサイトに写している。
以下、本文。
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今日は休み。なんだか最近は日記を書くのが休みの日ばかりになっている気がする。仕事は午後からなので、毎日それなりに時間はあるはずなのだけど。
文章を書いていると、心が自然と内省的になる。目の前の現実を離れて、言葉と記憶の世界に入っていく。
そこは、日常を過ごしているときとは物事の感じ方や時間の流れ方が違っていて、一度入るとなかなか戻ってこられない。長い文章を書いたり読んだりするときにしか、そういう風にはならない。
その日あったことをただ記録するという書き方もあるけれど、そうやって日常の延長線上みたいな感じで書いていても仕方がない気がする。文章を書くことで非日常への扉が開く。それこそが日記を書く醍醐味だと思う。
だからこそnoteのような場所ではあまり文章を公開する気になれないのかもしれない。他者の気配に満ちているところでは、身構えてしまって内省的になれない。内省的になりたくて書いているのに。
今日は車で30分ほどのところにあるホームセンターへ行こうと思っていたのだけど、ガソリン代が高騰していることもあって断念。とりあえず近くの古本屋に立ち寄って適当に時間を潰していたら、気が付くと日が暮れていた。立ち読みしていた本を何冊か買って、七時過ぎに店を出た。
レジでお金を払うときに、財布のなかにまだ使える図書カードを見つけた。使おうと思ったのだけれど、古本では使えないとのこと。じゃあこのカードで新刊を買おうと近くの本屋へ行った。新刊なんて高くて普段買わない。奮発して買ったのだけど、カードの残高は少ししかなく、結局、それなりに現金を出して支払った。私としては痛い出費となってしまった。
とはいえ本自体は欲しかったものなので手に入って嬉しい。こういうこともなければ買わなかったかもしれないし。以下、買った本。
星々の舟 村山由佳
ダブルファンタジー 村山由佳
17歳からの死生観 山折哲雄
うつ病九段 先崎学
新刊で買ったのは、
平成史 璵那覇潤
高かったが、まあいい。評判は聞いていたが、立ち読みで読んだらやはり面白く、結局買ってしまった。懐かしい言葉が数々出てきて、日本の社会や歴史のを自分に関係のあることとして読める。
本を漁りながら懐かしい気持ちに浸っていた。
二十歳くらいの頃、時間を持て余してとにかく古本屋に入り浸っていた。趣味もなく、友達もなく、何をしていいか分からずただ現状に対する不満だけがあり、それをどこにぶつけたらいいか分からず悶々としていた。自分と同じ匂いのする人の本を探していた。
それからは長いこと読書から遠ざかっていたのだけど、なぜか今日は久しぶりに本でも読むかという気分になった。ヒマだったからだろうか。
あの頃のような現状に対する強すぎる不満はもうなくなったけれど、状況としては当時と今は似ている気もする。時間があって、それなりに自由に使える小遣いもあって、なにより一人暮らしだ。一人にならないと本は読めない。
考えてみれば、一人暮らしをするのは大学以来じゃないか。二十代はずっとシェアハウスのような場所を点々としてきた。そしてその頃からほとんど本を読まなくなっていった。
思えば、病んだ自分を治すために本を読んでいた。それ以降は他人と関わることが薬になって、本を読まなくても平気になっていったのかもしれない。
今はあの頃からさらに一周回って、また同じところに戻ってきたような感じだろうか。
ときどき今の自分をなぜか高校生みたいだなと感じることがある。あのときになりたくてもなれなかった自分を、もう一度やり直しているような感覚、と言ったらいいか。とがいえ、私ももう28歳なのだが。しかし正直、年齢をあまり意識することもない。
古本屋の店内を歩きながら、そういえば昔、ベルギーかどこかへ語学留学に行こうか迷っていたこともあったっけと唐突に思い出したりもしていた。
海外への単身留学なんて、いまの生活からは想像もできないくらい非現実的だけど、あの頃はそんな風に思わなかった。もちろん真剣に考えていたわけでもなく、ただ夢想していただけなのだけど。それでも、取るかもしれない選択肢の一つとして考えてはいた。
学びたいことがあったり、海外で生活したかったわけではない。なにか自分に箔のようなものを付けたかっただけで、何もしてない自分自身に対する不安の裏返しのようなものだった。だから実際には、ここではないどこかに行ければなんだって良かった。
どれくらい自分のことが見えていなかったのだろう。今ならそう思う。
たしかに今でも海外のどこか知らないところに行きたいなあと思うことはあるが、その程度のふんわりした願望に気を取られていたら、現実的なことを何も決められない。
夢を描くのも大事だけど、実現するには手の届くところから積み重ねていかなければ。
実際に、当時はほんとうに迷ってばかりで何も決められなかった。
でも、もしもあのとき何かの間違いで飛んで行ってしまったとしたら。その後はどうなっていたか分からない。もしかしたら今とは違う道が開かれていたかもしれないし、やり遂げたことで自信を付けたかもしれない。もちろん途中で挫折していた可能性も大きい。
今の私は、あのとき行かなかった私の延長線上に生きている。今の私にしてみれば行かなかったのは必然だけど、当時は未来が未確定で、あらゆる可能性を思い描いていた。思い浮かぶ選択肢の全てが、実現するかもしれない未来だった。
だがともかく、あのときは行かなかった。今だって、また行きたくなったら行けばいいだけの話でもある。
昔は非現実的なことを夢想したのだけど、そういう欲望の持ち方もあるよなと思い出したことが、なんだか嬉しかった。ここではないどこかへ思いを馳せるということを久しぶりにした気がした。
このところもうずっと雪に閉ざされている。体も心も。