過去の日記(https://tmp.notepin.co/)をこちらのサイトに写している。
以下、本文。
ーーーー疲れ切って寝ていた。明日も忙しい。明日を乗り切ったら休みだ。頑張ろう。うおおおお。
とにかくぼーっとする時間がほしい。何にも追われず、ただ無為に過ごす時間。フルタイムで仕事をして、帰ってきてからご飯を食べたり風呂に入ったりすると、それだけで24時間を使い切る。人生が労働と生活だけになってしまう。
去年はそうなった。今年は同じことを繰り返さないようにしたい。人生を労働と生活で使い果たしてしまうのではなく、労働と生活と創作もしくは何らかの社会活動、その三本柱でやっていきたい。そうでなければ人間らしい生活を送ることができない気がする。
SNSを眺める時間は一見すると無駄なようだが、現代において町内会の回覧板を見ているようなものかなと考えると、なんとなく納得できるものがある。
血縁、地縁、社縁、現代はあらゆる既存の共同体が崩れ、個々人が自力でネットワークを構築しなければならないようになった。それは、共同体への帰属を強制されないという意味では自由なのかもしれないが、自分が帰属する共同体を自分で選ばなければならないという意味では不自由で、かつ厳しい。
ていうか、自分の所属する共同体を自分で自由に選ぶなんて不可能なのではないかと直観的に思う。意識で全てをコントロールできると考える現代人の傲慢に過ぎないのではないかと。そもそも共同体という言葉にはもっと、個人の意思なんてものを越えて抗いがたく巻き込まれてしまうようなものなのではないか。そんなイメージがある。
昨今、「共同体」もしくは「コミュニティ」という言葉は、趣味のサークルとかそういうものと同じくらいライトに使われるようになってしまった。まさにそのことが現代において実質的な意味で共同体と呼べるようなものがなくなっていることの証左ではないかと思う。
人は結局、似ている人同士でいるのが心地よいから、放っておくと似たもの同士の集団ができる。でもそれは好きで集まっているだけ、楽しいから集まっているだけであって、楽しくなくなったら行かなくなる単なる趣味のサークルのようなものに過ぎない。コミュニティと呼ぶには至らない。じゃあコミュニティとは何なのか。
好きではないけど集まる、いつも楽しいときばかりではないけど集まる。もしそれがコミュニティというものの条件の一つなのだとしたら、何が人をそうさせるのだろう。人々が集まる輪の中心には、いったい何があるのだろう。
たとえば、職場。職場も人々の集う場所である以上、これも立派な一つの共同体の形であることに変わりはない。職場の中心には何があるのか。何が人を職場に引き寄せるのか。
普通に答えれば、仕事ということになろうが、労働の対価としての賃金を得るためだけに職場へ向かっていると割り切って答えられるほど、事情は単純ではない。人が仕事するのは、やはりお金のためだけではない。もちろんそれは大きいが、所属意識やアイデンティティの問題などさまざまな複合的な要素が絡み合っている。絡み合う要素が複雑であるほど、共同体もしくは組織として強靭という言い方もできるかもしれない。
ところで、「組織」と「共同体」って似ているようで違う。何がどう違うんだろう。分からないが、「共同体」より「組織」の方がなんか具体的な感じがある。「共同体」はいささか観念的に私には聞こえる。使う人の理想を反映して都合よく使われることも多い。
そういう私も共同体的なものに対して、前々からなんとなく雑に憧れがあるからこそさっきからこう色々と書いているのだが、じゃあ自分の求めているその共同体的なものとは具体的に何なのかと考え出すと途端にわからなくなる。
世の中的に普通に考えたら、結婚して子供を産み育て家族を作れと言われるのだろう(そして正社員になって身を固めろとも言われるだろう)。私も二十代後半。まあそういうことを考えてもいい時期である。しかしなんというか、もし仮に結婚したとしても、いわゆる核家族で私と妻と子供だけで暮らすという姿を私は望んでいない。
…とかなんとか、相手もいないのにいろいろ言っても仕方がないのでもう寝よう今日は。