2022.01.03 2021年のまとめ

ak110
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過去の日記(https://tmp.notepin.co/)をこちらのサイトに写している。

以下、本文。

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昨年のまとめ的なものを書きたいのだが、最後まで書けるか分からない。

もう何度も同じような投稿を書こうとして失敗している。このところずっとそんな調子で、書こうと思っても書き切れない。書くたびに苛立ちだけが募っている。

昨年もいろいろなことがあった。間違いなくここ数年で最も忙しい年だった。なぜか。シンプルに新しい仕事を始めたのが大きい。でもそれだけでなく、私生活の面でも自家用車を手に入れたり家計簿を付けて生計を管理するようになったり、大なり小なり変化があった。

ひとつ変化が起きると、そのたびに慣れるための時間が必要になる。家計簿を始めて10ヶ月。仕事を始めて7ヶ月、車を持って3ヶ月。やっと今の生活に慣れてきたところだ。でも時間を掛ければちゃんと慣れて、慣れればどんなことでも普通になっていく。車なんか久しぶりに運転したときは怖くてたまらなかったけど、今やすっかり慣れてしまった。

基本的に私は変化を好むタイプではない。とくに急激な変化を嫌う。何事においても時間が掛かる。でも焦って急いでやろうとすると、身に付かないし楽しくもない。

というわけで、何につけてもそんな調子だから他人より大幅に遅いペースで人生を歩んでいるわけだが、それでも今年はずっとバタバタしていて、とくに十二月は忙しすぎて体調を崩した。

普段は社会に適応して生きているフリをしているけれど、やはりどこかで無理をしているのであって、その無理が自分の限界を越えないくらいの範囲で生きていきたいのだが、その加減が難しい。

経験上、社会に適応しすぎるとロクなことがないと思っている。

私の人生は大学を中退した二十三歳の頃に始まった。当時の私にとって、大学に入学することは空気のように当たり前のことだったが、いざ大学に入ると何かが違い、結局、精神的にも身体的にもバランスを崩して大学を辞めた。いま思うとあの苦い経験が、私にとってようやく始まった自我の目覚めのようなものだったと思う。

家族の思いや社会の常識、そういう周囲の状況に対して、自分は何を思いどう感じるのかしっかり自分で考えていないと、あっという間に呑み込まれて自分を見失う。この「自分を見失う」というのはなにも抽象的なぼんやりしたことじゃなく、身体的にも精神的にも苦しい辛い経験だった。そんなこともあって、二十代の多くを世の中的なことから離れるようにして過ごしたのだった。

でも一昨年の暮れ頃から、世の中との距離感みたいなものをもう一度考え直そうと思うようになった。

ていうか正直、ついに行くところがなくなって、現実的に実家に戻らざるをえなくなったのが大きい。でも、このままのやり方を続けていても、自分の人生はもうどうにもならないと思うようにもなっていた。

社会から離れると言っても、社会と無関係に生きることはできないし、そんな人生を自分が望んでいるわけでもない。どれほど社会から離れても、結局は自分自身と社会・他人との関わりについて考えてしまう。自分が納得できるような形は何か。しっくりくる形は何か。

ということで今の仕事に就き、半年以上が過ぎた。新しく就く仕事だったが、その中にも今までの自分と繋がるところがある。というかなるべくそういう職種を選ぶようにしたのだった。結果的に良い選択だったと思う。

仕事としてやっているとはいえ、そこに自分としての思いや考えが乗っていなければ嘘になる。嘘は良くない。倫理的にも良くないし、健康的にも良くない。自分というものを保ちながら、なるべく嘘を付かずに社会とどう折り合いをつけて生きていくか。

職業が人間の本質を表すとは思わないけれど、今の生活ではやはり仕事に最も多くの時間と労力を割くことになる。しかも休日になると疲れて何もやる気が起きない。自分と社会のバランスという面から考えると、少し社会の側に引っ張られすぎているのかもしれない。

今年はもう少し、自分のことをやっていきたいと思う。こうやってまた文章を書いたりとか。