2022.05.15 余裕がない

ak110
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過去の日記(https://tmp.notepin.co/)をこちらのサイトに写している。

以下、本文。

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今日は一日だらだらしていた。休日とはいえ、やることがないわけではないので、冷静に考えればだらだらしているヒマはなかったのだけど、とはいえこういう日がないと、やっていられない。

とくに最近は忙しかったり体調を崩したりして余裕がなかった。すべては余裕から生まれる。余裕があるからこそ人は新しいものに好奇心を抱いたり、非日常的な体験を味わおうと思えたりする。余裕がないとダメだ。まずは余裕を取り戻さないと、人間的な思考、人間的な行動、ともすれば人間的な感情さえ失うことになる。

というわけで、今日はだらだらしていた。具体的に言うと、とにかく今日は昼過ぎまで寝ていた。目が覚めても布団から離れず、ひたすらスマホをいじっていた。

スマホで何をやっていたかというと、アプリ版のドラクエ7である。もう何度もやっている。今までにもう五、六回は全クリしたんじゃないかと思うが、しかし数週間前に懲りずにまたやりはじめた。

言うまでもないが、スマホでドラクエ7をプレイするという時間はまったく生産的ではない。せっかくの休日をスマホゲームに費やすなんて一人の大人としてどうなのかという気持ちにならないわけではない。

こういうときに人間としての素養みたいなものが出る気がする。教養というか文化的な豊かさというか。

小学校の頃にしていたゲームをまたやるなんて、おれはなんて低俗な人間なんだろうと、いやになる。だが、ともかく事実として、今日は取り憑かれたようにスマホの画面にちょこまかと動く小さなキャラクターに意識が吸い寄せられていた。間違いなく不毛な一日だった。自分でもなんなのかと思う。

でも、これこそが人間というものなのではないか。ある種、人間としての必要悪みたいなものではないか。そう思い直したい。

たとえば人は健康に悪いと分かっていてもタバコを吸う。論理的に考えれば必ず損をすると分かっていてもパチンコをする。私はタバコもパチンコもしないから彼らの気持ちは分からないが、健康に悪いと分かっていても無性にスナック菓子を食べたくなるときはよくある。彼らにとってのタバコがスナック菓子で、パチンコがドラクエ7みたいな感じかもしれない。

とにかく、人は合理性だけで動くわけではない、という話にしたい。話をいきなり膨らませるが、世界中を騒がせているこのたびの戦争だって明らかに非合理だ。だが非合理なことをしてしまうのもまた人間なのかもしれない。

私たちは自分に対しても他人に対しても理想的な姿というものを簡単に思い描くことができる。しかし、その姿は現実と必ずどこかずれる。頭の中で描く理想をそのまま現実に当てはめることはできない。

人間の想像力には限界がある。頭の中で思い描く世界より、目の前で広がっているこの世界そのものの方が情報量が多く、豊かで、圧倒的に大きい。けれども、私たちは自分自身の五感というフィルターを通してしか世界を捉えることはできない。だから、どんなに目の前の世界が豊かだったとしても、受け取る側の自分自身の容量を超えたものをそこから汲み取ることはできない。

肝心なのは、人間には容量がある、ということだ。満腹のとき目の前に大好物の料理が置かれても食欲をそそられないように、受け取る側の状況次第ではどんなに喜ばしいものでも不快に感じられてしまう。余裕がないとダメというのは、つまりそういうことだ。

最近の私はいささか余裕がない。いつも台所に常備保存している醤油とマヨネーズがいま切れかけているのだけど、こういうところにも余裕のなさが表れている。

というか、だいたい現在の家の状態は、私自身の余裕のなさを忠実に反映した有様になっている。

縁側には、何に使うのか分からない大きな板が置かれている。居間には、二階寝室にあるはずの布団がなぜか置かれてあって、その横には整理しきれていない書類や本が山積みになっている。枕元には脱ぎ散らかした服、ゴミ箱はちり紙で満杯になっていて、これだけ暖かくなったというのに灯油ストーブはそのまま置かれている。自分で書いていても、いやになる。だがこれが現実。思い描く理想からはほど遠い。

放置されているものは、一応それぞれに理由があって置かれている。たとえば縁側に置かれた大きな板。これは小屋の戸を修理するために買ったのだが、厚さが違ってハマらなかった。作業自体も心が折れてストップしている。梅雨が始まる前に完成させなければならないのだが、やる気が出ない。

居間に布団が敷いてあるのは最近まで風邪を引いていたからで、二階の寝室が埃っぽくて喉に悪いから一階へ移したのだった。なぜ二階が埃っぽいかというと掃除機を長い間かけていないからなのだが、しかしそれにも理由がある。二階の部屋はリフォームをしている最中でモノが散乱している。整理しようにも棚などの家具自体ないので、片付ける場所がない。

こういう風に家の中はいま、やりかけの作業がいくつも放置されている。しかしこれらは今の私には手に余る。容量を超える。どうすることもできない。だから見たくない。というわけで、私はスマホの画面に視線を集中させて見たくない現実から目を逸らした。つまり現実逃避ということだ。

なるほど、たしかに現実逃避していたよなあ、と、ここまで書いてようやく納得した。ここまで書かなければ、こんな単純なことにさえ気付けなかったかもしれない。

言葉にすることで、自分の置かれている状態から距離を取ることができる。距離を取らないとよく見えない。