過去の日記(https://tmp.notepin.co/)をこちらのサイトに写している。
以下、本文。
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休日即勉強。来月には通信大学の学期末試験、十月には資格試験の本番がある。勉強しないわけにはいかない。最近、夜になると必ず蕁麻疹が出るのだが、ストレスが溜まっているのだろうか。
もともと勉強自体は好きなので、単に昔の自分に戻っているだけのような感覚もある。新しいことに挑戦しているというよりは、もともとの自分の土俵で勝負しているという感じだろうか。
これまでの生き方とは明らかに違う方向へ進んでいることにいろいろと思わなくもない。主観的には何も変わっていないと思っているのだが、外面的には確かに変わった。住む場所も、日常的に関わる人も、ライフスタイル(定期的な収入がある、毎日車を運転するなど)も変わった。
今年ももう半年が過ぎようとしているが、今年の方向性はもう定まっているので、後はやるべきことをやっていくしかない毎日。やるべきこと即ち勉強。ということで今日もテキストに向かっている。
それにしても教科書ってどうしてこう退屈なのだろう。知識を体系的にまとめた文章というのは、情報の圧縮や整理という意味では合理的なのかもしれないが、人間が何かを知るというときの生理には反しているように思う。
そもそも文章を読むということは、文章に書かれてあるものをそのまま文字通りにインプットするということではないと思う。文章のリズムに意識を合わせること、それを通じて書き手の意識に自分自身を同期していくこと、なのではないかと思う。
どんなに精緻に書かれた教科書でも、客観的な情報の羅列というのはあり得ない。どんな文章でも必ず書き手の視点というものを通じて書かれる。安易な論理、わかりやすい物語に物事を落とし込むのは危険だが、瑣末な記述ばかりで背後に筋が見えないと、結局何が言いたいのかわからない。
拾い読みしながらノートに自分でまとめ直したり、その分野に関連する本をほかに読んで補ったり、やりようはいろいろあるのだろうけれど、そんな時間はいまの自分にはない。