2022.01.23 格差と欲望

ak110
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過去の日記(https://tmp.notepin.co/)をこちらのサイトに写している。

以下、本文。

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マックに来ている。百円のコーヒーだけじゃなんだか申し訳ないと思ってソフトツイストも注文したが、そこまで食べたいわけではない。

日記を書くにしても、家にいるとちっとも集中できない。やらなきゃいけないことも多い。掃除機をかけて、洗濯機を回して、流しに放置してあるお皿を洗って、トイレのマットを消毒して、溜まっているチラシや光熱費の領収書の類を整理して…などとやっているうちに一日が終わってしまう。ていうかストーブの前で暖を取っているうちに一日が終わりかねない。いかん。というわけでとりあえず玄関を出て車を走らせたのだった。

かといって行くあてはなく、結局マックに来た。ここに来てやることと言ったら何か。とりあえずWiFiを繋ぐ。そしてブログを書く。なんだろう、この変わり映えしない行動パターン。

年頃の男が休日にこんな過ごし方をしていていいのか。いいはずがない。おれみたいな生き方をみんながしていたら国が滅ぶ。ということは、もしかするとおれは間接的に国を滅ぼすような生き方をしているのかもしれない。

他の人たちはどんな風に生きているのだろう。おれはおれで勝手に生きているだけなのだが、他の人たちとの比較をはじめると、おれももっと世間的なことを考えたほうがいいのではないかという気がしてくる。例えば結婚とか。子供がどうとか。収入を上げるにはどうしたら良いかとか。

考えないこともないが、自分の身に引きつけて真剣に考えたことはほとんどない。そういう意味では、おれはまだまだ大人になりきれていないのかもしれない。いや、でもべつにそんなこともないよな。ただおれはおれで勝手に生きているだけだ。

いつ頃からか、自分を誰と比較したらいいのか分からなくなった。中学や高校の同級生とはもうかなり昔に疎遠になったし、大学時代はそもそも友達がいなかった。大学に行かなくなってからは一転、当時はSNSが黎明期だったこともあって、フェイスブックなどを通じていろいろな人に会ったけれど、今でも付き合いがある人はほとんどいない。

上京してからも本当にたくさんの人に会ったけど、ちゃんと関わることができた気がする人は数えるほどしかいかなった。そして、そういう人たちとも、もうあまり連絡を取らなくなってしまった。いま、地元に戻ってきてから関わりのある人はほとんどが仕事関係の人たちだ。

これは寂しいことなのだろうか。私は寂しいのだろうか。いま現在、私がとくに寂しさを感じないでいるような気がするのは、私がなにかを誤魔化しているからなのだろうか。

そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

今の暮らしに満足しているかといえば、もちろんそうではない。でも具体的に何か不満かと考えると、それもよく分からない。このまま年だけを取って、ゆっくりと老いて死んでいく。そういう未来もあるのだろうか。分からない。

ガラスの天井という言葉がある。生まれや性別など自分自身の変えられない属性が理由で、社会的・経済的に不利な地位に押し留められること。いろいろな意味での「上昇」を阻まれること。

ジェンダー的な意味で言えば私は男性なので、どちらかと言えば優位ということになるのだろうか。しかし地方在住という意味では、都市に住んでいる人より不利だと感じなくもない。

正規か非正規か。高齢者か若者か。世の中にはいろいろな社会的属性と、それに伴う格差がある。でも、そうは言ったって、それらの属性だけで簡単に優劣を付けられないような気もする。

分からないほうが幸せという言い方もあるし、知らない側がいつも損をしているということもある。分からないとか悠長なことを言っているのは優位な立場にいるからだという考え方もありうる。

今の自分自身の暮らしぶりを考えると、これを客観的に優位だとは言うのは難しいと思うのだが、実際のところどうなのだろう。

男性、二十代後半、未婚、非正規労働者、地方在住。持ち家に住み、軽自動車を一台所有している。いわゆる社会的な属性で切り取ったら、こんなところになるのか。自分が社会的にどう位置づけられるのか、自分でも分からない。

横浜に住んでいた頃、何かの巡り合わせで、高級な料理店やバーに連れて行ってもらう機会がしばしばあった。例えばああいうお店に出入りしている人たちは、たしかに豊かというか、社会的階層が高いというか、まあそういうことになるのだろう。バブル世代の人たちと話をするのは、前提としている社会感覚があまりにも違って、逆に面白かった気もする。

失われた三十年とともに育った私は、好景気を経験することがないまま大人になった。草食系男子という言葉が流行語になったとき、たしかに自分は草食系を地で行くようなタイプだと思った。いわゆる物欲というものがない。少し前まで服や車やお酒にお金を掛ける意味が本気で分からなかった。

多少、理解できるようになったのは、たった数年ではあったけれど都会で生活して、欲望を心の中にしっかりと持っている人たちとの間に人間関係を築くことがができたからだろう。周囲の気の合う人たちが欲しいモノを、自然と自分も欲しくなった。他者の欲望が自分の欲望になる。

物欲に限らず、欲望を持つのは人間として自然だし、基本だ。欲望とは生きるエネルギーのようなもので、それがなければ生きられない。社会のなかに自分の欲望を受け止めてくれる鋳型を見つけること。それが大人になるということだという気さえする。

社会には欲望が渦巻いている。欲望が街を作り、人を動かしている。欲望がなければ、立ち止まるしかない。立ちすくむしかない。そして、現に私は何度も立ちすくみながら、都会でのふわふわとした生活を送っていた。

東京は街ごとに固有の雰囲気があって、住む人たちのタイプも街ごとに偏在している。自分のタイプに合う場所もきっとどこかにある。そういう気持ちにさせてくれるから、寄る辺はなくても居心地が良かった。

今でも都会には憧れがある。でも最近は、地元で暮らすのがなんだかんだで一番自分らしいのではないかと思うようにもなってきた。

とにかく一度、地元で一から生活したほうがいいとずっと思っていた。それが実現したのはよかったと思う。そもそも私の都会暮らしは、最初から成り立ちようのないものだった。土台のないところに家を建てているようなもので、いつも自分以外の何かの力に頼って生きるしかない心苦しさがあった。

そういうものは、今はない。でも、自分の力だけで生きているというわけでもない。そもそもこの家は祖父母の家で、私が建てたものでも借りたものでもない。それでも以前のような心苦しさがあまりないのは、やはり相手が家族だからだろうか。

人は一人では生きられない。困ったときはお互い様。見知らぬ者同士であっても、人と人が互いに助け合う社会が理想だと思う。

でも、自分自身が実際に困っているときは、結局のところ、家族に頼り、実家に戻った。戻ることができたのは、父が健在で、祖父の家がそのまま住める状態で残っていたからだ。そんな風にできない人もいる。というか、そのほうが多いだろう。

数年前まで、人が自然に集って好意でモノやお金が循環していくことを理想とする場の運営に携わっていた。そうした理念に共感したからこそ関わっていたわけだが、反省も多い。自分のことで精一杯で、他人の行く末まで見通して手を差し伸べられるような度量など何もなかった。今もない。

当時のことで私が考えなければならないことは、あまりにもたくさんある。だが核心的なことほど、言葉がスッと出てこない。