以前行った学校の生徒が興味深いことを言っていた。その子は「大人になることは楽しみか?」という問いに対して「大人になりたくない」と主張していて、理由を尋ねると、「自分で自分の人生を“考える”のがめんどくさいです」と言っていた。
おもしろい回答だと感じる。そうだよな、とも思う。たしかに考えることが億劫な時もある。できるなら、もっと大きななにかに寄りかかって、そのなにかが僕に正解をおしえてくれたらいいのにと思う時さえあった。
考えるとは、一体なんだろう。
その子にもう少し聞いてみると、考えられる人は自分とはちがうと言っていた。自分よりかしこくて、変わっていると。
あなたにとって、僕は考えているように見える?ときくと、「そうなんじゃない?」と返ってきた。おもしろい。
僕はあなたのことを知らない。それと同時に、あなたも僕のことを知らない。だから断言しなかったあなたはあなたなりに、そのことを考慮してくれたんだと思う。
この日記を読んでいる“あなた”は考えること、好きだろうか。僕が答えるなら、考えることは“好きになった”と答えるだろう。
こうやって日記を書いているのも、僕にとっては考える言い訳のようなもの。なにかしら気になってはそのことを赴くままに考えて、人と話したい。
でも、考えることで、僕は強くなったのだろうか。むしろ弱くなったんじゃないだろうか。
「強い・弱い」に優劣はない上で、書いていきたいのだが、3年前、先生になる前に、僕は高校生の伴走支援をしていた。支援といっても、一緒に考える仲間のような立ち位置だ。
そこで、高校生がふと言っていた「ハッシャダイに出会っていなかったら、こうやって考えることも、悩むこともなかったのだろうか」という言葉が頭から離れない。
たしかに、僕もカンボジアに行かなかったら、まっすぐ先生になって、迷いなく、その場でがんばっていたのだろうか。
考えるきっかけはどこにあるのかわからない。考えることで強くなるかもわからない。もしかしたら、弱くなることもあるだろう。
それでも、弱くなることも含めて、僕は考えることが好きだと言おう。
弱くなるのなら、一緒に弱くなる。それが対話だ。モヤるなら、一緒にモヤるし、たまには、手放し、思考をとばしながら、自分が立っていた立ち位置とちがう場所にいることに後で気づく。
考えるって、おもしろい。
その上で、大人になるっておもしろい。
いますぐにわかったと思わなくていい。僕もまだわからないし、わかろうとしたいと思っている。その意思が、僕をつよくしていくんだろうな。
今日も読んでいただきありがとうございました。今年の書き初めは「ところてん」と書きました。