元旦を寝て過ごすことの多い私だが、今年は珍しく午前中に起きて午前中に家を出た。昨年末から気になっていた映画「窓ぎわのトットちゃん」を観るためである。年に片手で数えられるほどしか映画を観ないのに、わざわざ一月一日から行かなくても……という気はした。しかし、他に都合の付きそうな日がなかったし、いくら卒論がヤバいとはいえ誕生日に映画を観るぐらいなら許されるだろう、いいよね、と自分に言い聞かせて観に行った。誕生日の割引クーポンも使えたし。金欠大学生にとって、百円の割引は馬鹿にできないありがたさなのである。
映画館には色々な客がそこそこいて、「正月から映画!?」と驚いた。これまで映画館が身近になく、大学生になって(比較的)栄えた町に住み始めるまでは「映画を観る」という行為が生活の中に存在しなかったからである。「普通お正月は家族みんなで和気あいあいするもんだよね」という固定観念に縛られていたのも一因かもしれない。正月だからといって特別なことをしてもいいし、しなくてもいいし、人と過ごしてもいいし、過ごさなくてもいいもんな。なんだか勝手に安心した気持ちになって、私はシアターへと足を踏み入れた。
二時間後の私は、涙を必死にこらえながらマスクの下で鼻水を垂らしていた。なんなら一時間ぐらいずっとこんな感じだった。とても良かったし、この映画で一年を始めることができてよかったと思う。
気の向くままに動くし喋るし、一緒にいるとヒヤヒヤする。静かにしていると思ったら空想の世界を遊びまわっている。縁日のひよこを欲しがる。トットちゃんの姿は、親戚たちから嫌と言うほど聞かされた、そしてなんとなく覚えている自分の姿にそっくりだった。気になるよね、楽しいよね、一生懸命だよねと、私はとうに大人になっているのに、よくわからない目線でトットちゃんに共感してしまった。トットちゃんがのびのびとしているところを見て、私も嬉しくなった。
最初に落涙したシーンがどこかはもう覚えていないが、強く印象に残っているところはいくつかある。泰明ちゃんのお母さんが汚れたシャツを抱いて泣くところ。「次はどんな学校を作ろうか」のところ。他にも数ヶ所。そして、トットちゃんが小林先生に「大きくなったら私もこの学校の先生になる」と言うところである。子どもが自分の考えを素直に伝えられる大人はどんなにやさしい人であろうか。子どもが「私もこんな風になりたい」と思える大人はどんなに素晴らしい人であろうか。学校の先生や学校の先生になりたい人たちはみんな、この映画を観るべきなんじゃないかと思った。大人もみんな観たほうがいいと思う。子どもをめいっぱい愛せる私たちでありたい。あろうよ。
子どもに限らず誰であれ、お互いがお互いを愛するためには余裕が必要で、今の社会にはそれが足りていないのだと思う。余裕がないから取捨選択の必要に駆られて、弱いほうからどんどん取り落とされていく。でも、そんなのおかしいよね。世の中に捨てる選択をされる人と取っておく選択をされる人がいるって、おかしくないか? おかしいよな? 余裕のある社会をつくるために何をするか(何ができるか)は人によって異なると思うが、少なくとも戦争には反対し続けようと「トットちゃん」を観て改めて思った。憲法を変えるのも反対。