人の難しさを感じる話

akitsu
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あまり明るい話ではない。

祖母が緊急入院してはや4日。そのまま星に…とはならなかったものの、依然として状況は良くも悪くも…いや悪いのかもしれないが、そういう状況もあまり降りてこず、日々ぼんやり祖母との思い出を反芻しながら、時間を見つけては見舞いに行っている。

一人孫なので祖母には大層可愛がられた。その自覚があるし、祖母の家に行くと大変甘やかしてもらえるので、思い返せばほとんどいい記憶しか残っていない。たくさんのぬいぐるみと、美味しい料理、欲しいものに裁縫技術、いろんなものをもらったと思う。だから、今の痛々しい姿から少しでもよくなって欲しいのだが…。何より、誕生日会を先送りにした結果がこれなのがやるせない。

なるようにしかならない、という母の言葉は真実だと思うし、これからどうしたいか決めるのは祖母だ。正直なところを言うと、体力のない母の方が心配なのだが…。

祖父母といえば、祖父の母方は生まれた時にはなくなっており、父方の方は中学ごろに亡くなっている。祖父は寡黙な人で、思春期真っ只中だった私にとっては近寄り難く、可愛がられていたとはおもうものの、少し苦手意識がつきまとう思い出ばかりだ。何より、祖父が入院したのを見舞ったあと、帰りの車で友達と電話をしていたら(当たり前と言えば至極そうなのだが!)しこたま叔父に怒られた記憶のほうが先立つので、懐旧に浸るよりも先に父に申し訳なかったなと思う苦い気持ちばかりが呼び起こされる。

私の祖父母は、今入院している祖母を除くと物心つく前に亡くなっているか、早いうちに亡くなっている。そのため、一番付き合いが長いのが、今の祖母なのだ。

さて、祖母はとても穏やかで愛嬌のある人だ。抜けているところもあるが、それなりに頑固でかなり好き嫌いもあり、でもそういうところを親戚が笑って見逃せるような感じの、素敵な人だ。怒ったところを見たことがない気がする。

もう大層な歳だから、会話をしていても途中からゲームの村人の会話のように内容が巻き戻ったりする。3ヶ月も会う時間が空けば、以前話したことはとんと覚えてないし、いまだに私は20歳前半だと思われている節がある。

それが苦ではないのは、身内であることをのぞいても、単に祖母の愛嬌なのだろう。会話のペースが合わなくても、苦ではない人だ。

そんな人間が世の中にいるのに、会話のテンポが噛み合わないことが許せない人間というのが一定数いる。なぜ、テンポが合わないのだろうか、と最近考えさせられる機会が多いので、こうして文字に起こしている。

一つ思うのは、私と会話のテンポが合う人間はせっかち気味なのだろう。私がよくやりがちなのは主語を省いた会話で、気をつけないと相手がついてきてないことが多々ある。このクセは父親譲りで、母親は逆におっとりとしているため、会話のオチにたどり着くまでが大変長いことがある(しかもオチがつかないことがある)

せっかちな父とおっとりした母の間で育った私は、「主語を飛ばす会話+会話の主語を察する」力が無駄に育った。父親とはまどろっこしい会話はしてないし、反対に母親と話す際はオチがつかなかったり、肝心の部分を思い出さなかったりするので、先回りして拾ってやる必要がある。両親なので私は苦にならないが、父はよく母の着地点のない話にイライラしている…ので、私が話をまとめることもよくある。

つまり、会話に慣れてくると主語をぶっ飛ばす会話になりがちだ。例えば、両親と面識がある私の同級生が宿願だった就職先に勤め始めた話を、母から聞いていたとする。その後、父と会って別の同級生の話をしていた際に、「そういえば聞いたか?…」で切り出された時、「ああ、XXくんの話ね。聞いたよー」で返して会話を進める感じだ。この会話には流石に父には驚かれたが、まあ父が持ってる私の同級生の会話デッキなど少ないから、頭が働いている時なら思い当たる範囲だ。…と私は思ったのだが、違うのだろう。

流石にこれは身内バイアスがかかった会話のぶっ飛ばし方なので、他人にこれを求めはしない。ただ、旦那とはよほどじゃない限りは会話のペースは合うので、ややこの会話のレベルには達しているかもしれない。

察することができる人間が正しいというわけではない。場合によってはとんでもないアンジャッシュが起きていたりすることもある。カンで会話するのは危険だし、双方の理解度を測りながら会話するのがコミュニケーションというものだろう。

難しいな、と思うのは、そのコミュニケーションにおいて察するレベルが違う人間同士はどうやったらささくれずに付き合えるか、だ。

私は仕事の連絡をする際はなるべく主語を抜かずに、クドくても繰り替えしで確認をしている。それでも、内容を6割程度しか理解していないレスポンスが来た時に、日本語力の敗北を悟り、白目を向いて倒れている。文章のプロとはいわないが、多少なりとも文字に触れている人間としては、自分がわかりやすく説明した文章を理解されずにレスポンスされると相手よりも自分の知力の限界に発狂しがちだ。自分のせいといえば、自分のせいだが…。

職場や身内に限らず、会話をしていて「うーん、通じてないかも〜」と思う瞬間はよくある。逆に、他の人が話していて私にとって理解しやすかった話でも、また別の人間がまったくトンチキ質問をすると「あの説明でわからなかったのか…!?」と失礼ながら心の中で思ったりする。

もちろん、私がいっとう頭がいいと傲るつもりはない。頭がよくてせっかちな人からしたら、私だってどんくさいノロマだろうし、多分背伸びしてもその境地に私は追いつけないのだろう。

自分がトロかった場合でも、相手との察するレベルの合わせ方が難しい。私が理解できた説明で、相手が「なぜ理解できなかったのか」を分解するレベルまで、深いコミュニケーションというものをとらない。こと、職場においては。

日本語としてもそうだが、察する、推測する、という能力が違う人間を相手したとき、どうやったらお互い苦なくいられるのだろう。やはり、相手には期待しない、が一番正しいのだろうか。いやいや、許容値というものはあるのだが…。

結局、会話に限らず推理小説のような創作物だって、質やテーマ性を損ないまま多くの読者のレベルに合わせるのは難しい。本や映画に触れてこなかった人間に、推理小説のメタ的ロジックを使った推理小説の面白さを伝えるのが難しいように、やはりある程度の切り捨てが必要なのだろうか。そこを伝わるようにするのが創作者の手腕なのでは、と思うのだが…SNSでは義務教育の敗北の例が多々あるため、やはり限界はあるのかもしれない。

私は人間的に不出来なので、そういう「察する」テンポが合わない人間に内心ビキビキすることが多々ある。本当に最近多々ある。もちろん、冒頭に述べたように著しい心労がかかっていることを加味したとして、本当に多々ある。本当に。

そうなると私の悪い癖として人とのコミュニケーションを面倒がり、どんどん削ぎ落としがちだ。そうして淘汰していった先には、ごく少数のコミュニティしか残らないのが、あまりよくないことだとは思いながらも。

同じ言語を喋っているのに、相手に意図が伝わらないというのはもどかしい。察して欲しいと思うのは女性特有の思考回路らしいのだが、同性でも察する力は平均化されていないので、本当に難しい。

さりとて、教えることが嫌いかと言われるとそうでもない。根気よく付き合う素質はあると周囲にも言われるし、自分でもある程度そう思っているのだが、なにぶん物凄いエネルギーを使う。察してくれない、事前知識がない人間に対して、いかに「興味を持続させたまま」「わかりやすく」「忘れさせないでいるか」というのは並大抵ではできないことだからだ。なので、生徒の熱量が全くイコールでない中でものを教える教師という仕事を、私は尊敬している。

最近は、気軽に何かを「教える」と言い出さないようにしている。TRPGにおいても、「この人はこのシステム好きだろうな」とか、頭を過ぎることがあるが、一度面倒をみたら私の方でもそれなりのエネルギーを使ってレクチャーする場を整えてしまう。本人のやる気と私のエネルギー消費が釣り合わないことが多すぎるため、もう言わないことにしている。釣り合ってなかったり、興味を抱かれていないと察して(思い込んで)しまったときの無力感と徒労感をむこう半年は引きずるからだ。

こういう話をしたあと、大抵私が付け加えるのは「まあ実際に私が実践できているかは置いておいて」、だ。心持ちとしてはそういるというだけだ。できているか判断するのは私ではない。

昔は本を読み、知識をつけることで、こうした解離もなくなるのかと思っていた。だが実際のところは逆にその差は開くばかりで、「わからないことがわからない」の領域が広がりつつある。別に職場の人間関係はどうだっていいが、プライベートもそうなると、エネルギー消費がマッハなので避けたい。

アドラー心理学の本の内容も思い返してみたが、まああの手の学術書や啓蒙書は大抵「実践できてりゃ苦労しねえ」のレベル感の話なので、覚えるまで読み込まないと意味がないのだろう。

会話というコミュニケーションもそうだが、創作も一種のコミュニケーションなので、躓いた私はずっと考えていた。

自分の理解力と大衆の理解力をすり合わせるのは難しい。どこまでを常識のラインとするのか、線引きが難しいからこそ、何かを作るときはターゲティングやマーケティングの調査が必要なのだろう。「誰に」「何を」「どのように」伝えたいかを明確にして、創作のテーマ性や感じて欲しいことを、受け手に届けるのが創作というものだ。抽象画など受け手にかなり委ねている例もあるが、この辺は一旦おいておこう。

察する力が発達していれば、相手が何を察することができないか理解できると思っていた。だが、最近その自信もなくなってきて、自身の日本語力の追いつかなさに辟易するばかりだ。

結局のところ、察する/察されるの関係性を保つのに必要なのは、察して主語を飛ばした会話ができるせっかち人間側の、気遣いというエネルギーなのだ。そりゃそうとも言えるのだが、まあこのエネルギーが今の私にはないのだろう。

察して待ちの女は大抵の場合面倒なやつのことが多い。要は私のようなメンヘラ気質の人間なのだが、そういう人間に限って変なところで察する能力が高く、認めたくないところはみようとしないから、生きるのは難しい。

大きな要因としては年々増大していく、他人との交流に使うエネルギーの増大と最大値の低下にあるだろう。浮き沈みは多少あれど、創作にも興味がなくなってきたら、いよいよ一つの終わりを迎えるのかもしれない。そして、ややその終わりは見えてきている気がする。もしかしたら、ずっとこのまま長い時をかけて終わりを迎えるのかもしれないが。

この手のメンタル消費は長く尾を引くと最近わかってきた。祖母のことはもちろん心配だし、それに付随する身内のごたつきと、それに立ち向かいながら介護をする母の心労を慮ると、自分の不甲斐なさばかりが過ぎるのだ。

もう少し母に似て、あるがまま受け止められれば楽だったのだろうが、生憎そういうメンタルには育たなかったらしい。なんだかんだで心配性で神経質気味な父に似たのかもしれない。

母との旅行は行けるだろうか。きっと母も楽しみにしていただろう旅行ぐらい、あまり親孝行できていない身としては叶えてやりたい。

なるようにしかならない、だろう。

@akitsu
びっくりするほど飽きっぽい