親しき仲にも対話あり

aknorsh
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年末年始は平田オリザさんの本を読むのが恒例となっていて、今年も例に漏れず「対話のレッスン」という本を読んでいる。読みながら思ったこと。

「会話」とは、お互いの事情をよく知った者同士の気軽で気楽なお喋り。「対話」とは、お互いのことをあまりよく知らない者同士が、「知らない」ということを前提として行う意識的なコミュニケーション。

本の中で、日本人が他者との対話を苦手とするという点が指摘されていた。なるほど、これにはいくつか身に覚えがある。

年末年始に実家に帰省すると、久しぶりに会う親戚と会食するイベントが発生することがある。そのような場で、親戚との間に共通の話題がなくて沈黙してしまう場面によく遭遇する。それは君のコミュ力がないせいだと言われればそれまでだし実際そうなのだけれど、それはさておき前述の区分に当て嵌めてこの状況を見直してみると、これは「対話」すべき場面で「会話」しようとして失敗しているのではないだろうか、ということに思い至った。相手は自分のことをよく知ってるだろうと思い込み、自分も相手のことを知ったつもりになっているのでは?

同様の現象は、学生時代の友人と久しぶりに再会した際にも生じる。学生時分は、部活やサークルのこと、学業やバイトのことなど、共通の話題がいくらでもあった。ところが社会に出て自分の人生を歩み始めると、互いの「事情」が乖離し出し、少しずつ「お互いのことをあまり知らない人同士」になっていく。卒業後も頻繁に連絡を取り合ってるとか共通の趣味や関心ごとなんかがあれば別だが、そうでない相手だとやはり久しぶりに会うと話すことに困ってしまう。この場合、もともと「会話」が成立していたということが事態を複雑化しがちで、下手すると、以前は気楽にお喋りしてたのにアレ?自分たちってそこまで仲良くなかったのかも?などと考えてしまうかもしれない。

この文脈の乖離により拍車をかけるのが、現代のコンテンツの多様化だと思う。しもふりチューブの話が通じる人でも、ララチューンは見てないかもしれない。紅白歌合戦を見てタイムラインで実況する人もいれば、VTuberの年越し配信のコメント欄に張り付いてる人もいるだろう。「ネトフリとかアマプラとか、何か見てる?」と尋ねて、果たして自分が見てる番組と同じタイトルが出てくるだろうか。

というわけで、かつてどうだったかは置いておいて、相手のことをよく知っているか?という問いに胸を張ってYESと言えない場合は、まず「会話」は成立しないと自覚し、かつ意識的に「対話」を積み重ねて新たな文脈を築いていこうかなと思った。2024年はそんなかんじでいきたいわ。