
今週撮ったわけではない今週の写真。バターシーのはず。なんか建造物がN市みたいだなと思って。
写真を載せようと言ったのにすでにネタ切れしそうである。ろくな写真を撮らないので仕方ない。
今週はいろいろあった。感情的に振り回された一週間だった。トリガーウォーニングのレベルまで達しないかもしれないが、ネガティブな感情も強いので、注意してほしい。
長い話を短くすると(long story shortの意)こないだ話したカフェを辞めた。悔いてないしまあせいせいしている。
雇ってくれた人は見つかってよかったと安心した様子だったが、問題だったのはその上司で店のオーナーでもあるシェフだった。怖いというか機嫌の悪い人だということは初日から分かっていた。いろんなメディアで描写されてるところの機嫌の悪いシェフかと思ったがその域を超えている。たぶんいろいろあって疲れてるんだろうなというのは分かるが、それは他人をひどく扱う口実にはならない。わたしだって疲れている。そのオーナーと初めて二人で働くことになり、そこで限界になってしまった。
まず、今回のことを通してつくづく気付いたのは、わたしは機嫌の悪い人と会話できないということだ。できるだけ相手が言ってることを頭に入れないように心を閉ざしてしまうのだと思う。それについて、自分に非があるとは思わない。わたしは自分に自信がない人間だが、それでも自分が間違っていないときは分かる。
わたしの反応が薄いのを見て、あるいは目が無になっているのを見て逆上する人もあるかもしれない。しかしわたしは自分が悪くないことに対して反省できない人間である。不機嫌な人の話をぶった切らないだけマシだと思ってほしい。わたしがもっと自分を大事にする人間だったら黙って聞いてないと思う。よく聞いて反省している演技などできない。
大したことじゃないし、その人について考える時間も無駄だと感じるけど、心が傷ついたのは紛れもない事実だ。くだらない、考えるのも癪だけど、痛みはたしかにある。そのうち消えるが。
考えてみると、わたしは人の不機嫌に当てられてることが多い気がする。そういう人たちの「怒り」や「イライラ」のぶつかりはストレスのはけ口であって、こちらとしては理不尽なものばかりである。いつも「この人は今機嫌が悪いのだろう」と自分を納得させているが、なぜわたしがわざわざ察してやらなければいけないのだろう。はっきり言おう、それはわたしが弱い立場にあるからだ。例えば、わたしは雇われている労働者だから、あるいは間借り人だから、自分を追い出すパワーのある人に対して「八つ当たりすんなや」とは言えないのである。言える人もいるかもれない、しかしわたしはそのように訓練されていない。自分の収入口、自分の住むところを守るために、黙っている。
もう一つ学んだのは、これはニューロスパイシーに難しい職場だなということだ。これについては、あとあと考えれば考えるほど悲しい気持ちになる。
今回の経験ほど、自分がニューロダイバージェント脳だと感じることはなかった気がする。端的に言えば、自分の必死のマスキングが、取り繕ったマスクが、不正解だったということを突きつけられたような気がした。
オーナーに、あなたのはいはいはいyeahyeahyeahという返事は不安ぽく聞こえると言われた。たしかに、わたしは不安のある人間だ。だからうんうんうんとなっている。相槌をうつことでenthusiastcに見えるかと思ったがそうでもないらしい。あと、これはニューロスパイシーゆえのfidgetingだとも思う。リズミカルに音を出したり動いたりは我慢ができない。焦ったり、ふとした折にそういう動きをしてしまうのはわたしの脳がそうさせるのだ。
それから、あまり目を合わせないのが良くないとも指摘された。ASDは目を合わせるのが好きではないと初めて聞いたとき、みんなそうじゃないのかと驚いたのを思い出す。わたしはおそらく散々マスクキングしているニューロスパイシー脳なのだと思う。できる限り「よりよい」コミュニケーションを心がけているが、人の目を意識的に見て話すことはできない。なんというか気持ち悪い、他人の目を見ることは。お客さんの目を見て挨拶はなんとかできるが、ずっと目を合わせてやり取りは過剰だと思う。わたしが客でもそう思う。しかしオーナーには違うヴィジョンがあったようだ。
そういうこともあってか、わたしのようなニューロスパイシーに向かない仕事だなと思ったし、わたしのマスキングが「失敗」していたことを突きつけられた。
ニューロダイバージェンシーについて学ぶことは、もちろん自己発見という点で助かるし、今までの違和感などに説明を付与することもでき、多少安心する。一方で、もしわたしが「本当に」ニューロダイバージェントじゃなかったら、わたしはただぎこちないだけの社会不適合者なのかもしれないという不安もある。ただでさえ、わたしはニューロダイバージェンシーを「口実」に自分のダメさ、努力不足を隠蔽しているのではという内面化されたエイブリズムも心のどこかに巣くっている。
今回もまた運が悪かった。最低賃金の仕事を見つけるのも大変である。
ということでイヤ〜な気持ちだったが。
どうしてもやりたかったライティング・ワークショップに受かり、大喜びをした。面接(のようなゆるい会話)で失敗したと思い込み、週末ずっと落ち込んでいた案件だ。月曜に結果通知くるかなとずっとソワソワしていたが中々やってこず、メールボックスを更新しまくっていた。こっちの終業時間に合格通知がきてやっっったーーーーーーーーーと心の中で大騒ぎをした。あまりにもストレスフルで、メモを見ると'right now I am genuinely in this mood: fuck the world!'と書いてあって笑える。なぜならそのすぐ後に合格通知が来て、この文字列のすぐ下に返信のための下書きをしているからだ。
ちょうどライティングリトリート(原稿合宿みたいなもんだけど、今回は学校でやった)だったので騒げなかったが、やたら派手な音を出していたかもしれない。ライティングの制限時間が切れたあと、耐えきれずその場にいた友だちに聞いてくれ〜〜〜これ受かったやった〜〜〜と報告した。こういうときはシェアするのが一番である。これを自慢とは思わない、特にアカデミアにいるとみんなそれぞれの成功をお祝いする雰囲気があると思う。常に一つのポジション狙って競争しているわけではないし。わたしも友だちでも知り合いでも何かのファンディング通ったとか本の契約取り付けたとか論文パブリッシュしたとか聞くと心から嬉しくなるので、どんどん教えてほしいし、わたしからもいいニュースは共有する所存だ。友だちには、スポーツの心理学で証明されてるんだけど、小さい勝利を祝福するのが大事、失敗のたびうだうだするより、どんな小さなことでも喜ぶんだよ〜と言われハ〜イ!となっていた。
こういう嬉しいニュースがあると疑ってしまうのがわたしの長らくの問題だったが(大学院に受かっても奨学金に通って「本当か?このあとキャンセルされるのでは?」という根拠のない不安で喜ぶ暇がない。大人になってからますますひどくなった)、これはまあまあ頑張ったしまあまあの重要度なので信用できるのかもしれない。重大すぎると本当か?と疑心暗鬼がひどくなる。
例の件があってから、あんな酷い目に遭ったのだから頼むからこっちは受かっててくれ〜と思っていた。人生プラスマイナスじゃないんだけどそういう風に考えがち。いいことがあったら悪いことがある。逆も然り。そして「次は何が起こるのだろう」と延々に繰り返される不安。受かってたとメールを見て心からホッとした。これで落ちてたらわたしのメンタルのどす黒さが更新されていた。
前も書いたとおり、自分の研究者としての才能にはあまり自信がない。研究はやりたいと思う。でも、できるか分からない。周りを見ていても、研究者として生きていくのはすごく難しいことが分かる。特にイギリスに残るのであれば。分野にもよるが、博論書いてその後スムーズにテニュア付きポジションまでいくのは至難の業だし、運もいるだろう。だからわたしは色んな「抜け道」というか、どういうふう身の振り方をしていくか検討していた。一方で、そろそろ気合い入れて頑張らないといけないなとも思う。もちろん可能性を広げておくことはいいことだと思うだけど、そろそろ俺は研究者だと腹を括って挑まないといけない気がする。これから、論文はもちろん単著も出版して。グラントも取って、大学のポジション確保して。夢のまた夢という気がするが、ここ最近ライティングリトリートで他の若手研究者と出版セミナーに出ているので、ますます、ここが頑張りときなんだろうなと思う。
わたしの学年一つ上で、おそらくわたしが知る誰よりも「成功」している友だちの若手研究者(ポスドク2つ、グラントあり、出版複数)にまじですごいどうやってやるのって聞いたとき、とにかく他に選択肢ないから、全力でやるんだよと言われたことを思い出す。そのときはヒィエーすごッくらいしか思わなかったが、そういう覚悟が求められている時期なんだろうなと思う。ここに骨を埋める覚悟のような…(どこに?)
ところで、同じライティングリトリート中に友だちと話してて、こないだ日本に帰ったら生活の質がやっぱりこっちと全然違くて、もちろん日本社会はあれなんですけど(他の国と同じように)、単純に生活の質だけ見たらこっちよりも遥かに高い基準で日本住めるのに、なんでこっちにいるんだろう…という最近周りによくする話をした。彼女も留学生で、分かるわかるなんでわざわざロンドンにいるんだろうね、と深く賛同してくれた。でもそこで、でもわたしたちまだ若いし、実家にはいつでも戻れるし、今はできるだけロンドンいようよ!と言われ、シンプルな話だがそうだなと思った。まあ若さというのは相対的で(いつ鬼籍に入るか分かりませんし)わたしにはあまり関係ないが、とにかくいれるだけいよう、そのくらいの気持ちでもいい気がする。
もちろん今後がんばるし覚悟するところではしっかりするが、人生何が起こるか分からない。そんな深く思い詰めなくても、その時できる最善を尽くそうと思う。今回ワークショップに受かったことで、アカデミアの方面でもなんとか頑張れる気がしている。これからポスドクやフェローシップ申請や論文や、やることはたくさんある、全部できるだけやろう。
今日唐突に、こないだ面接に行った教職のバイトに受かった連絡が来て、よかったよかった、と安心している。これは今まででダントツ一番リラックスした面接だった。ほぼ緊張しなかった。あんまり思い詰めず、受かんなくてもいいやの気持ちだったのと、そもそもわたしは教育分野の経験はしっかり長いので、自信もあった。質問にも悩むことなくすらすら答えられたし、いい回答だったのだろうなという感触さえあった。受かんなくていいやの気持ちだった割にここ受かったかもしれないな、と自信の低いわたしにしては珍しい気持ちでその場を後にした。
いい知らせである。教育は得意だし、楽しんでできるし、時給も高い。拘束時間も長くない。例のバイトはやめてよかったのだとつくづく思う。そもそもこちらに受かりそうだなと思ったとき、カフェはやめた方がいいだろうなと思っていたが。なんというか、全てがあるべき形になっていく感覚を覚えている。
今日のビッグイベント、mock viva(口頭諮問の予行練習)。友達から聴いてたので覚悟してたがやはりうまくはいかなかった。現実を突きつけられた感じだ。聞かれる可能性のある質問をリスト化し答えを準備していたが、まるでそれについては聞かれず。自分の理論や手法を分かりやすく説明することを求められることが多かった。フィードバックを聞きながら、自分の頭の中にうまく落とし込めていない部分、広い視野で自分の議論を考えていないところ、何より自信の低さが浮き彫りに出た。もう何度も何度も繰り返されてきたことであるが、自信を持って挑むことこそが肝だ。しかし自信はそう簡単に湧いて出るものでもない。
こういった衝撃や落ち込みは想定していたが、今日のエモーショナルジャーニー(感情的軌跡、と呼ぼう)の中で新しかったのは、終わってすぐに肩を落としながら落ち込まなかったということだ。いつもなら(というか、博論執筆していたここ最近の心境なら)、自分の才能のなさに絶望して胸がキリキリ痛んでいただろう。泣いていてもおかしくない。でも今回は、一人になってまず、Stop pitying yourself. と頭に浮かんだ。なんだかんだと泣き言を言うな、と。ここで落ち込んでも何も変わらない、本番までやることだけやればいいのだ、と。感情にdwell/呑み込まれず、まずやることをやろうと。
そういう変化があったのは、口頭諮問のあと指導教員の一人がしばらく励ましの言葉をくれたことにあると思う。普段あまり会うことがない指導教官だが、助けになるときは非常に助けになる。あと、一緒に博論を書いてた友だちと口頭諮問に関して話したのもすごくよかったなと思う。彼女が今も図書館で書いていることは知ってたので、とりあえずいたら挨拶しようかなと、口頭諮問の予行練習が終わり落ち着いたあと図書館の「いつもの場所」に行ったら友だちがいたので一時間くらいキャッチアップした。彼女は口頭諮問の経験があったので、いろいろアドバイスをくれたし、慰めの言葉もくれた。こうやって、あぁ自分なんてダメだ、無理だ、となるよりも、やっぱり友だちや知り合いと話した方がはるかに良いなとしみじみ感じた。自分の才能のなさを嘆くのでもなく責めるのでもなく、まずできることをやろうと思った。
友だちと話していて気付いたが、口頭諮問が終われば博士もほぼ終わったようなものだ。結果はどうあれ、少なくとも区切りができる。とにかく口頭諮問があるということしか考えていなかったが、ということは博士課程もようよう終わるということだ。まだやることは残っているが、大枠としては最後の関門だ。なんとも不思議な感覚である。博論を提出したときもよく分からなかったが、口頭諮問を受けたら自分は、一応は、自由なのだ。これはポジティブな感情である。そこでやっと、区切りがつく。ラストスパートだ。だから、緊張して挑むより、楽しみにするくらいがいいだろう。自分の論文を信じて。
東アジアのファンダム研究してる方の話を聞いておもしろかった。ちょうど最近の日本の選挙における「推し活」のメインストリーム化と、ノーベル平和賞に推薦された、大統領を弾劾する韓国市民の中でKポグループのペンライトを掲げていたことを思い起こし、(もちろん一例ではあるが)なんなんだこの違いは…となったことを話した。東アジアではファンダムのような集団がソーシャル/ポリティカル・モビリティの原動力になっているというのはつくづく頷く。しかしなんでそれでこんなに違うのだ、と思ったりする。
ファンであるという自己認識は人間のアイデンティティの一部でもある。そのアイデンティティが反権威に向かうか向かわないかの違いなのだろうか。政治家のアイドル化という現象は前々から言われているし、それは東アジアに限ったことではない。いずれにせよ、〇〇のファンであるという自己認識が、自分が主体であるというactorhoodに繋がるというのは、なるほどと思った。つまり、例えば誰か・何かに思い入れているとき、その人のため、その人たちを「救う」ため「自分」が動くのだという意識だ。それは応援であったり、擁護であったり、組織行動であったりする。そこには主体性がある。そもそもファン活動というのは、多くの人が楽しいからやるものであって、そのポジティビティを活かせれば、いわゆる政治について会話したり政党活動に関わったりと政治活動に繋がるかもしれない。(ちなみに、アンチ・ファンダムというものもあるらしい。しかしこれにしても、ストレスの発散とか、同じ意見を持つ人たちのコミュニティの発見といった、ポジティブな方向にいくものだと思う)
これに関して何かこれといった意見があるわけではない。
今日は官邸前などで反戦デモをしている人たちを見て嬉しくなった。やれることをやっていきたい。