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13 Sep 2026

aktf_wcbh
·
公開:2026/9/14
地下鉄出口に,タイルが敷き詰められている。

リスボンの地下鉄、大学に向かう出口にソクラテスの言葉があったので、ふさわしいなと思った。なんて書いてあるかは分かりません。


忙しかった夏が終わった。この忙しさ、というかいよいよ研究者としてやっていく上での心構えやセッティングなどについてずっと考えていたので、ここに書いておきたい。ちょうど忙しいときって、こういう文章を書くことをずっと空想していて、いざ落ち着くと何もしたくなく、文章を書く気にもなれない。これが書きたかったのも、おそらく三日前くらいがピークだったろう。しかしものを残すこと、そして文章を書くという行為自体には大いに意義があると思うので、最高の出来にならないとしても書いておく。

夏の間、1ヶ月半から2ヶ月ほど、毎週の仕事もなく、やるべきことに集中できる期間があった。その間にやっておくべき主なタスクは、本の章を二つ書くこと、重いポスドクフェローシップの申請を終えること、そして学会のプレゼンを準備することだった。たったこれだけに見えるかもしれない。本の章については、最終稿というわけではなかったし、学会についてはペーパーでなくパワポのプレゼンだけの準備だったから、ますます大したことではない、と思えるかもしれない。しかし、実際には大したことだった。

こないだにも例に出したが、研究者としていろんなプロジェクトに関わっていることは、シェフがキッチンでさまざまな料理を作るのに似ている。それぞれ、スピードも手順も違う。最終的に形になるようそれぞれに目をかけないといけない。脳の特性によっては、こういうふうにいろんなプロジェクトに常に目をかけておくことは難しい。わたしは基本的にはそういうタイプで、一度に一つのことに集中しておきたかった。実際には、〆切に向け優先順位を向け、そのときにできることに全力投球していた感覚だった。

できるだけ全てバランスよくできるよう、Gantt Chartも作ったが、わたしにはあれは向いていないようだ。できるだけ、一日に複数タスクをやるより、日にちごとに「今日はこれをやる」と決めた方がいい。

なかなか毎日時間を決めて仕事ができないという話ももうしたと思う。この問題については昔から自覚があって、なんとなく博士号を取ればもう少ししっかりするのでは、と無責任にも想像していたが当然そのようにはいかなかった。自分は自分である。もっと言えば、自分の脳は自分の脳である。改めて、始めるのに時間がかかる自分の脳の特性を認識し、とにかく「起きたらすぐ始める」ことに集中した。わたしは起床もだいぶ遅く、睡眠時間が長すぎるのも問題だなとしみじみ自覚しているが、そうそう早く(というか、7時8時とか、出勤する人たちが起きている標準的な時間)に起きられない。そもそも、睡眠時間が長すぎるのも、オーバーヒートしがちな脳が疲労しているからかと思うと、無理に縮めてもいけないと思う。起きなければいけない用事があれば起きれるが、それを考えていると考えすぎてしまうので当然睡眠の質はぐんと下がり、用事がなければずっと寝ていれられる。

今後もできるだけ起床時間は早めにするつもりだが、今学期はいずれにせよ週5、6日出勤して大学で教えなければならないので、寝すぎることはなくなるだろうと思う。

早く起きる用事のない日に、遅く起きてのろのろと始めていると、夕方くらいにようやくタスクに手をつけるという状態に陥り、しかし一度ノッたものは続けられるし、それこそ提出日が近付いていて追い込まれていると、やり続ける以外の選択肢がなく、結果的に夜遅くまでやってしまう。そして、翌朝起きるのはまた遅くなってしまう、という悪循環の繰り返しだ。できるだけ早く始め、早めに切り上げ、夜はできるだけ働かない。体力はもちろん、自分の脳のためにも、就寝直前は働くべきではないのだ。

ということで、例えば何も用事がなく、とにかく家で研究しなければいけないときは、できるだけ早く起きること、そしてうだうだ言わずまず始めることが重要だと思う。さらに、メールを開くとそれだけで消耗してしまうので、それは午後でもいいから、午前はやるべきタスク(執筆など)にまず手を付けようと思う。

こんなことは前から分かっていたことではあるが、ここへきて、自分一人でいくつものプロジェクトを進めないといけない状態になって、改めて整理しようと思ったことだ。一部の人のように、朝早く起きて、9時ー5時で働いて終わり、ということは自分にはできないと思う。そんなモデルを追いかけないで、できることをできるようにやる、というのが当分の目標だ。

あとはつくづく、何もしない休日というのは必要だ。夏の間、友だちと遊ぶ日も半月に1、2日くらいあったが、それ以外の日は文字通り仕事詰めだった。つまり、家で本の章を書いたりポスドク申請書類を推敲したりする以外は、外で友だちと一日中遊んでいたということだ。類は友を呼ぶというべきか、わたしの友だちはだいたいわたしに似てえんえんしゃべれる人ばかりなので、遊ぼう!となると丸一日の予定になる。一日とても充実しているが、終わったあとはまあまあ疲れる。家で仕事している間も、合間合間にいろんなメディアに触れて、仕事脳を癒すようにはしているが、それは一日中何もしない休日とはまるで違う。わたしには、友だちと遊ぶ休日と、何もしないような休日(家事なども極力しない)が必要で、今後それをできるだけ実現したいと思う。

一つ使えるなと思ったアプリは、「ねこ勤怠」というものだ。シンプルに、「出勤」「休憩」「退勤」のボタンを押して、自宅での「勤務時間」(ただ仕事だけでなく、家事とかいろんな項目を入れられる)を計算してくれる。これをやっていると、「始める」という意思表示もできるし、実際自分が何時間も作業していることが分かって、とてもいいなと思う。無用な装飾がなく、シンプルな作りもありがたい。

無用な装飾といえば、友だちが勧めていたのでFinchというアプリもダウンロードしたが、わたしにはこれは向いていない。メンタルヘルスのためのアプリで、毎日ルーティンを続けるのに良いということで、実際に助けられている人が大勢いるのは分かっているが、わたしには画面の情報が多すぎて、続けられない。Duolingoにも同じことを感じるが、ポイントやら何やらの機能が多すぎ、気にしないようにしようと思っても目に入ってくる。特にわたしはゲームの類を一切やったことがないからか、こういうのをいじるセンスもないし、何がどう加わっているのかも見当が付かない。わたしはできるだけ静かで、何もないデザインを求めているようだ。このインターネットを利用しているのもそのせいだ。また、多くの人が共感するだろうが、動画の広告もいい加減うるさくて、最近はとにかく広告が流れてきたら音量をゼロにしている。お金に余裕があるときは広告なしプランにもしていたが、今はそれができない。昔は多少耐えられたかもしれないが、今は数も長さも悪化する一方で、わたしは忍耐力なんてないので、とにかく音量を下げ、見ないようにしている。こういうのは全て、わたしの脳を無駄に刺激するだけで、疲れるのだと思う。人混みに繰り出すような感覚になる。自分一人で自分の部屋にいるだけなのに、なぜか無数の広告に晒され、なんだかんだと商品を売ってくる。つくづく、存在しているだけも疲れる世界だと思う。

このように、雑音の多い世界で、雑音の多い頭を抱えながら、どうタスクをこなしてくかは、ずっと課題になると思う。それこそ、もっと経済的に安定していれば、多少心の安らぎは得られるのかもしれない。しかし、今はそんなこと言っていられない(そして、この思考は資本主義社会に呑み込まれてしまっている)。混沌とした世の中で、澄み渡るような明晰さのある考えを持つことなど、できないだろう。しかし、可能な限りは自分というものを保っていたい。


申請書類が重いポスドクフェローシップ、〆切まで何回も最終提出ができるタイプのもので、これが苦痛だった。PDFをアップロードするたび、何らかのシステムエラーで一部が反映されてなかったらどうしようと、確認する手を止められなかった。しかも不安が強い人間なので、一度間違いを見つけると何度でも修正したくなる。修正するたび、ここでも何か間違いがあったら、と確認したくなってしまう。修正地獄である。最終提出の〆切日は元々用事があったので、何もできないことが分かっていたが、その日を何とか過ごしながらも、頭には常に書類のことがあり、ひたすら、〆切の時間が来るよう祈っていた。一回提出したらもうこれ以上どうしようもない、と思うから、提出の行為そのものは一種の救いではあるけど、このように何度もやっていいですよと言われると無限地獄だ。他の人はどうやっているのだろう、いやきっと、「ふつう」の人はこんなふうに不安を抱えて思い悩まないんだろうなと思った。


ここまで書いてきたことにそれとなく関係していることで、ニューロダイバージェンシーの検査について書いておきたい。わたしはイギリスでADHDの検査ができるよう2年前くらいに動き出したが、まだ検査を受けられていない。当時、待ち時間は一年半と言われ、こちらから聞いてみるべきなのかもしれないが、心のどこかで諦めの気持ちも感じている。元々、大人のADHD検査は近年急増していて、待ち時間の長さは有名だった。しかし、問題はそれだけではない。わたしが思い出しているのは、検査申し込みで提出を求められた親への質問書のことだ。

ADHDは幼少期から兆候があるため、親に本人の幼少期の行動について書いてもらう、という意図は分かる。しかし、ここで問題なのは、①親が英語をしゃべれるとは限らない、②親が、ADHDや他のニューロダイバージェンシーに関することにある程度ニュートラルな知識があり、それを持つことを「恥」としないと思い込んでいる、そして③育った環境によって、ADHDなどのニューロダイバージェンシーはちがった形で現れることを十分に理解していない、ということだった。①については、言語の翻訳ができることにはできる。②は難しい、結局わたしはこれを理由に、親に回答を求められないと返信した。日本ではADHDや他のニューロダイバージェンシーは必ずしもニュートラルに捉えられてはおらず、親は子どもに「普通」であってほしいから、そのような兆候があったとしても、認めない、と。もちろん、親や保護者がいない人、その人たちとの関係が良くない人もたくさんいるだろうし、親にADHD検査の初手を担ってもらうというのは、さまざまな問題の原因になるだろうと思う。

最後の③は、関連することを最近見かけたので、改めて言語化したい。質問事項には、例えば、子どもの頃、授業中、教室内を歩き回ったりしていましたか?などと書いてある。これを読んだわたしの反応は、「そんな子いたか?」だった。そんなこと許されなかった、わたしたちはず授業中ずっと椅子に座っていた、と。もちろん、それはわたしの経験というだけかもしれない。しかし、一般的に、日本の公教育で、子どもが好きに歩き回ることはできただろうか?と考えてしまう。そんなこと許されなかった、わたしたちは「しつけ」られてきたから。「矯正」というのは言葉が強すぎる気がする。でも、文化によって特定の振る舞いが規制され、また許容されるというのは、当然のことではないのか。

こういうことを考えていると、一体どのくらいの自分が、教育などによる錬成物なのかと想いを馳せる。もちろん、大きな「文化」だけではない。周りに認識されているジェンダー、また兄弟との関係(年齢)でも、「こうしなければいけない」というモデルがあった。その型に合うように、さんざん変えられてきたのだろうか。例えば、わたしは他人の話を聞くよう教育されてきたと思う(これ自体はいいことだと思う)。同時に、喋りすぎると「恥ずかしい」という感情に襲われるようになった。今でもこの「恥」の感覚は強い。

こうなると、「本当の自分」なんてものは到底つかめないと思う。自己と社会の投影によって、co-constituteされたのが今の自分であるからだ。そのうちの一部を切り離すことができたとしても、結局「私」と「それ以外」のどれかで全て二分されるわけでもないから、ただの「私」なんてのは存在しない。

少し話が逸れたが、こういうことをえんえん考えると、わたしは結局「しつけ」られたから、授業中座ることができるから、ADHDとかニューロダイバージェンシーによって生活を阻害されているわけではないし、大したことじゃない、という声も聞こえてくる。あなたは大して「重くない」から、我慢して、今まで通りやれということだ。わたしの中に、そういう声が未だにあることは否定できない。友だちには、そういう「わたしはまだマシだから」という遠慮は忘れたほうがいいと言われた。ニューロティピカルの人と同じことができるのであればいいわけじゃなく、ニューロダイバージェントな人はそれに合わせるために何倍も苦労しているんだよ、と言ってくれる友だちもいる。実際、ADHDの検査が今よりもっとずっと楽で、アクセシブルだったら、大いに助けを求められたかもしれない。状況が状況なので、大っぴらに助けてほしいとも言えず、ただただ連絡を待っているだけになっている。