July 2026

aktf_wcbh
·
公開:2026/7/11
窓にジェームズボールドウィンの言葉が書かれている。

5月に一泊だけしたパリで撮った唯一の写真。そりゃあ撮るでしょう。

Shakespeare and companyのすぐ近くだったから,関係しているのかもしれない。このジェームズボールドウィンの言葉を引用してる本屋,他にも知ってる。たしかにわたしが本屋でも使いたい言葉だ。

'You think your pain and your heartbreak are unprecedented in the history of the world, but then you read. It was books that taught me that the things that tormented me most were the very things that connected me with all the people who were alive, who had ever been alive.'


二月ごろ、毎週書いていたのが嘘のように書けなくなった。ただ単純に時間がないのだ。おそらくやるべきことをぎゅうぎゅうに詰めれば時間は捻出できるのだろうが、やるべきこと(仕事)をやったあとにはもちろんゆっくりする時間も必要で、それらを合計すると考えたことを書いている時間なんてない。悲しいのは、この先もしばらくそんなことができる気がしないのだ。これが終わって、この時期になれば書く時間も増えるかもしれないと思いたいが、そんな予定も立たない。とにかくこの先しばらくはやるべきことを消化して突っ走るしかない。

まとまった数にはならないかもしれないが、一切全く書けないというわけではないので、破片だけでも書いておこう。


急に忙しくなった。わかってはいたことだが。

5月に大きな〆切がいくつかあったのだが、どれもてんでバラバラなプロジェクトで、3月4月とあまりやる気になれず(そもそも他にやることもあったのだけど)、放置していたら、4月5月6月となんだかんだ気が急いてしまった。実際、基本的には博士論文だけ書いていた博士課程とはまるで違う。いろんなプロジェクトが並行していて、そのどれも面倒を見なければならず、そのようなマルチタスクはわたしのような脳持ちには必ずしも向いていない。

研究者の知り合いが、ポスト・ドクター(博士号とった後)のプロジェクトって、どれも内容も速度も違くて、いろんな進度の料理を同時に面倒みないといけないシェフみたいって書いてThe Bearのカーミーが例によって苛立っている画像をつけていたのだが、その感覚である。あちらこちらでやらなければいけないことがある。でも一つ一つがあまりに大きくて、すぐに終わるわけでなく、段階を踏まなければならない。段階を踏まなくていいタスクもある(メール書いたり、何か記入して提出したり)。しかしそれも数が多くて逐一フォローできない。今のところそういう些末なものはto doリストに登録しているが、それも数が多くてたまらない。overwhelmingという英単語はこのためにあるのだ。

先週までワークショップで、朝から夜まで現地参加だったため他のことをやる余裕はなかった(といいながら、夜な夜な読んだり書いたりしていたが)。それが終わり、とりあえず今は1、2ヶ月先の〆切たちを見据えている段階にあり、今すぐ全力で動かねば、というプロジェクトはなくなった。ちょうど今年の3月くらいの状況である。あと1、2ヶ月以内に終えなければならないプロジェクトがあり、それに向けて今から地道に進めなければならないということだ。前回の失敗を活かし、今回はGantt Chartを使ってやり切るつもりだ。これはどういうことかというと、端的に言えばタスクを細分化する、という基本的なことである。プロジェクトマネジメントなどをしている人たちは知っているだろう。わたしはここへきて、プロジェクトの多さ&複雑さに疲弊して、このようにプロジェクトの段階とそれに付随するタスクを細分化して、一週間ごとにやるべきことを大枠で決めることにした。五里霧中を目隠しをしてゴールに至らなければならないという感覚からは解放されそうだ。人それぞれ働き方があるとはいえ、毎日着実に、というのがわたしの理想だ。最後の三日間に集中してやるほど精神的に厳しいものもなかなかない。

今週に入って、もうバタバタ働かなくていいと切り替えをし、まず始めたことは生活習慣の改善である。早い話が、朝早めに起きて午前中から仕事し、夜6時以降は仕事をしないということである。考えてみれば当たり前のことだが、3月4月は特にこれができなかった。忙しくなってからも、夜に仕事を詰めるばかりで朝がなかなか起きられなかった。それも何か身体か脳か事情があるのだろうが、なるたけ午前から初めて、精神的な安定を得たい。月曜日と火曜日はなかなかの成功をおさめた(時差ボケがいい方向に動いたとも考えられるが、それについては考えないこととする)。昨日だいぶ早い時間に寝た割に、今日は朝起きるのもだいぶ遅かったが、ひたすら眠っていただけなので、おそらく身体がそれを求めていたのだろうと考えることにする。たしか友だちが、今日も早く起きれなかった、仕事できなかったと考えること自体、精神的に良くないという話をしていた。つまり自分を責め続けていても逆効果ということか。なので今日は遅くなったがあまり重く考えず、できることだけやった。それでいいんじゃないかと思う。

それから、このように文章を書くことを再開したのも良いことではないかと思う。ただただひたすら振り返りの文章だが、こうやって書き記してみると頭にスペースができるというか、どこか呼吸をしやすくなるような感覚がある。良い文章かどうかは関係がない。わたしがこうしてタイピングし、文を紡ぐことで、脳に余裕ができていく感じがする。これからも折りを見て続けようと思う。流石に毎週まとめられるほどの文量にはならないだろうが、できる範囲でやるつもりである。本も読みたいなぁ。それは来週かな。


先週、オックスフォードにいる友だちの家にお邪魔して、一晩泊まらせてもらった。公園でピクニックし、おいしすぎる夕飯をご馳走になり、そのあと映画を見て、一泊した。翌日仕事があったから早朝に起きてロンドンに戻らなければならなかったが、とてもよい一日だったと言える。

友だちには以前に一度、二年前にも夕飯をご馳走になった。わたしがよく遊ぶ友だちの友だちで、逆に言えばその一回しか会ったことはないのだが、昔からの友人のように打ち解けて話すことができた。話が合う友だちだからなのだと思う。

わたしの友だちとしては珍しく、その人はパートナーと子どもがおり、家も買っている。わたしよりも年上だし、世間的に言えば「ふつう」かもしれないが、わたしの友だちの中では珍しい。話の合うクィアで、なかなかそんな人はいないから、ところどころで今までと違う心境に陥ることがあった。

まず、家を持っているというのは羨ましい。たしか前にも書いたが、イギリスで家を買うことはとても難しい。その友だちも、もちろん簡単に手に入れたのではなく紆余曲折あってようやく買えたのだと知っているが、それにしても賃貸でなく自分の家に住めるのは羨ましい限りだ。その家には、(ジャッジメントでなく、ただただ事実として言うが)いわゆるモデルルームのような整然とした美しさはない。本人も言っていたが、ぐちゃぐちゃなところはぐちゃぐちゃで、いろんなものが散らばっている。しかしそれがまた、家を自分の住みよい場所にするというhouse/home makingということだろうなと思う。「人が住んでいる」ということが、ポジティブな意味で伝わる家だった。やけに覚えているのは、雑然としたキッチンで、小さいダイニングテーブルに座りながら、BBCラジオかなんかが流れていたときの風景だ。その、決して大きくない、こじんまりとした空間が、自分の家のように心地よかった。二年前に夕飯をご馳走になった一回きりしか行ったことはないのに、なぜか懐かしいような心持ちになった。ぼんやりとした光の入り方だったのだろうか、どこか遠くに聞こえるスピーカーの音質だったのだろうか。とにかく、温かい「家庭」の様子が見えた。ラジオはのちのちクラシック音楽を流し始めた。にわかにクラシック音楽の良さを思い出し、わたしも作業中に流そうと心に決めた。

自分の家に対する憧憬というものを改めて感じた。わたしもこんなふうに、自分の居場所と言える空間がほしい。

空間と家族とは別であるが、家族ということについても少しだけ思いを馳せた。まず、当たり前になるべきこととは言え、やっぱりすごいと思ったのは、子どもも含めてthey/themの代名詞が普及していることだった。学校がどのくらいしっかりしているかは分からないが、友だちの教育がなせるものだろう。お子さんとは二年ぶりに会って、すっかり成長しているなあとたまげたが、コアの部分が変わっていないなと気付いて微笑ましかった。

他に、家族のことというと、これも語ろうと思えば延々となってしまうのだが、やっぱりパートナーがいるということは(少なくとも)経済的に安定するのだということだ。これは一般論であって、友だちの家を見て特別に思ったことではない。改めて、パートナーは安定した生活のための保険(でもある)のだなと。

わたしはパートナーと一緒に暮らす意欲が低いというかむしろマイナスで、とにかく一人で暮らしたい人間なのだが、イギリスに住んでいて、昨年末にあった件で生活が一気に不安定になり、移民としていかに自分の生活基盤が脆弱かということを思い知った。

日本にいれば、実家に帰るという選択肢があるが、現状ではそれは容易ではない。とにかく自分で自分の生活を築いていくしかない。日本だってそういう状況はいくらでもあるのだろうが、わたしは今になって、そしてここへ来て気付いた。一人で生きることは大変で、そもそも社会は一人暮らし向けに作られているわけではない。

以前、アセクシュアルのブッククラブで、経済的には一人で暮らした方が得かあるいは家族で暮らした方が楽か、という議論(らしきもの)をしたことがある。友だちは、そりゃ人数が多いんだから家族で暮らすのは経済的負担が大きいだろうと言っていたが、少数派だった。観点が異なるだけだ。総合的な経済負担金額でなく、一人当たりの出費を考えるとやはり家族でいる方が「得」だろう。特に、年齢が上がるにつれて、家族を「作っている」ことが想定されてくると、一人で暮らすことのリスクはどんどん高まる気がする。少なくとも、わたしは昨年末の経験を経て(今もその状態は続いているけど)、一人で、それなりに良い生活を保つことは大変だという結論に落ち着いたのだった。


上記の心境だったのもあり、大好きなシリーズの最終刊、Father Materialを読んでいるあいだ、わたしはこれまでのようにはノれないかもしれない、と頭の片隅で考えていた。このシリーズは、自分のロンドン生活ともリンクしていて、また主人公たちと年代が同じということもあり、どこか共感する部分をもって読んできた。もちろんalloロマンチックでもセクシュアルでもないが、作者の特異なユーモアと深い思慮のおかげで逐一イライラせず読めていた。しかし最終刊(Boyfriend Material読んでいる人にはネタバレではないが、まだ読んでなくてこれから読みたい人にはネタバレかもなのでここ飛ばしても良いです)、パートナー持ちの人ばかり出てくることを改めて認識し、わたしはこの輪には入ってないんだよな、としみじみ感じた。わたしの友だちグループにはパートナーがいる人もいない人も様々である。パートナーがいる人しかいないという状況が珍しく、でもそれが「普通」なのかもしれないと思うと言葉に詰まるような感情があった。

これを読む前、日本の古畑任三郎シリーズを完走したこともあってか、読んでる途中もホームズに触れたり探偵ガリレオシリーズを見るなどしていた。それは、皆さんお察しの通り、一人で生きる大人たちがいるからだ。わたしの中では「普通」の、プライベートなパートナーがいない中年の話だからだ。それに触れているだけで心地よかった。

しかし最終的にFather Materialはまた特別なメッセージを残していったので、そんなに批判したいわけではない。やっぱりわたしはこのシリーズが好きだということに尽きる。読み終わったら、このパートナーシップ規範についてまた長々書きたくなるかもしれないとちょっと思ったが、最終的には「やっぱすごい、この本は」ということで満足してしまっている。よく書かれている本というものはこれだから困ったものだ。


研究って、全然きれいじゃないなということを噛み締めている毎日である。分野にもよるだろうし、結局は人それぞれだろうか、論文や本の章などの「成果物」を出すとき、スムーズに、計画どおり、まっすぐ進むものではない。むしろ、ごちゃごちゃした過程─頭の中でも、紙の上でも─を経て、だんだん出来上がってくるのだ。最初からきれいに書き上げることなんてできない。第一稿が目も当てられないほどひどくても、第二稿でも全然まともになってなくても、第三稿でもまだ分からないところがあっても、それは過程なのだ。〆切までに何かしらの形になっていれば万歳である。

ジョブハンティングで、いよいよ「わたしは研究者として才能がないのかもしれない」の声が大きくなってくる。それに対して、わたしは、「そんなん知らん」と言うことにしている。今までは指導教官に助けてもらったけど、今は自分だけでなんとか形にしなければいけない。想像していたようにスムーズに執筆できないし、研究計画も甘い。でも、やるだけやる。才能なんてものは社会構築ですし。