Week 01/mar-07/mar

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公開:2026/3/7
ヴェニスの狭い路地。外は暗くなっている

ヴェニス?ヴェネツィア?(クソーーームカつくぜッッッ!)の狭い路地。あんなに観光地なのにこういうところで一人になれるのでとても良かったヴェニス/ヴェネツィア。


見た動画の記録。

SM30周年で各グループから一人ずつ集められた番組。これは全3話のうち第2話。

全体的にバラエティーレベルが高すぎる。以下簡単な感想。

  • カリナが最高。後輩を圧で威嚇するカリナ最高。

  • ドヨンがいるといつも安心。ドヨンがちゃんとしてるからRIIZEのウォンビンさんがすごく末っ子…?新人ぽい感じで新鮮だ。

  • チャンミンの毒舌ぶりを10数年ぶりに思い出した。すげえ。

  • KEYとかいうプロ中のプロ。

みんながカジュアルに踊ってるところ素晴らしい。言うまでもないけどダンスうまいからほんとカジュアルダンスでもかっこいい。アイドルってすごいな…

ドヨンが少女時代ファンで、グループを集まってるの見るだけで嬉しくてファン心を理解した、きっと僕たちのことを見てもそのように思ってくれる人がいるんだろうなと(集まってるのを見て嬉しく思ってくれる人)言ってて、その通りですよ…!!!と思いました。

このあと色々SMで気になったのを見てた。KぽはSMしか知らないけど調べるときにSM縛りをしているのでまだ楽なのかもしれない。もちろん全然把握してないけど、どんなグループがあるかくらいはもちろん知ってるし,代表曲も分かるという程度。

その中で一番新しいグループのRIIZEのこのMV見て大きな拍手をしました。たぶんデビューしたくらいのころ、あのギターのMV見て、はい、爽やかな感じなんですねと漠然と把握してた。このFly Upという曲、たった3分で最初から最後まで良さが凝縮されてて良い。MVとしても久しぶりにおお!と思ったし、こういうの見たかったなあとしみじみ思った。

まずファッションが良い(大事)。流行りのスタイルをちゃんと落とし込んでる、コピペじゃなくて。ゴリゴリに踊って忙しく動き回るのも大好きだ。廊下を踊り回ってるところが最高です。ミュージカル映画ぽさありますね。

一番グッときたのはやっぱり街中の道路で踊ってるところですかね。N市にもこういうふうに街の片隅で踊ってほしかったんですよ…レッベルのRed FlavourのオーケストラアレンジMVで小さな男の子が街で踊ってたじゃないですか、あのイメージ。RIIZEのMVはまさしく思い描いてたその通りだった。あとセットよりロケーションが好きなので分かりやすくテンションが上がる。LAで撮ったらしい(撮影歌動画まで見てしまった)。

N市にこれやってもらいたかったと言いつつ、このカレッジスタイルはRIIZEにぴったりだと思うし(大して知りもしないのに、イメージで)N市でそのままやってほしいわけではないが。これはこれでRIIZEってこういうグループです!としっかり主張してていいですね。

So what if we’re different? (違ってて何が悪い?)という歌詞に最初ビビッときて、俺たちがお前たちと違うから何だってんだ?とクィア的な意味で捉えてたのだが、ちゃんと歌詞読んだら俺とお前が違くて何だってんだ?って意味だと分かった。みんな違ってみんないい(みつを)の世界だ。みんな違ってる、それで一緒になれるって歌詞。そもそも、「違う」とか「変わってる」っていうのも、「誰と比べて?」という質問がまずあるべきで、ゆくゆくはAはBと違っている、ではなく、AとBはそれぞれお互いに違う、という状態になるのが理想的ですよね。みんなお互いと違うので、クィアという概念が存在しない世界の話です。

ということで爽やかで元気があって楽しい。地団駄踏むムーブにいても立ってもいられなくなります。


1stフルアルバムのコンセプトビデオを見た。NCTmentaryみたいで楽しい。これぞ、エモい。

青空にも書いたが、詩が出てくるのが好きなので、書き起こす。

One who has journeyed far offers a prayer for one just beginning the path.

Watch over them, so they do not lose their light along the way.

Guide them through the storms and shadows, until they stand before the vast and open universe.

And may they never forget every step they've taken that's also a journey inward toward the dream that lives in their heart.

長らく旅をしてきた者は旅路の始まりにある者に祈りを捧げる。

その者らを見守ってくれ、途上で光を失わないように。

嵐と影の中を導いてやってくれ、その者らが広く開かれた宇宙の前に立つまで。

そしてその者らが決して忘れないよう、歩んできたその一歩一歩が、自分の心の中にある夢への、内側への旅でもあったことを。


読んだもの。

イラン人女性による記事。

言わずもがな戦争には反対だが、国のトップが死んだとき、安心したと。これに対して文句をつけてくる人たちがいる。そんなふうに感じてはいけないと。そういってくる人たちは、イランでの生活を知らない。安全な場所から、記事か論文でも読んで、イランを分かった気になっているだけ。でもあなたたちはイランを知らない。という内容。


「日本語で、女性や男性に見える人のこと女性表象とか男性表象とか言い始めたのどこからなんだろう 表象というのはrepresentationであって、女性や男性に「見える」というのはfemale-presentingとかmake-presentingなので、representとpresentを混合するのに若干の抵抗がある 女性や男性に見える人は女性や男性を表象しているわけではないと思うので あくまで主観的に、わたしからそう見える、という意味でpresentだから 表示とか表現とかになるのかな、日本語としてしっくりこないけど」

という文章を書いてから,ちょっと待てよと考え直した。表象というのは、例えばメディアにおけるレプレゼンテーションという面もあり、外側に向かって(意図的に)表現されるもの、というイメージがあるが、一方で、(実体のない)概念を表現するという意味合いもある。前者の場合、どうしても外に向かって、わたしがその概念に「代表」ですと言わんばかり表現しているようなイメージになるが、それだけが表象ではない。ある概念の表現というだけなら、ジェンダーが実体のない概念である以上、その概念を示すものは「表象」なのかもしれない。

つい日本語と英語の翻訳について考えていると,元々の英語がこうだからこの日本語は違う、となってしまうが、この「元々」というのは難しいところだ。女性表象とか男性表象というのも、社会的に構築された概念であるところの「女性性」を表象/象徴する人たち、くらいの意味なのだろう。

一方でなぜ英語はrepresentではなくpresentを使うのだろう。re-presentが「再生産」を内包することを思えばそちらでもいいのかもしれない。どうしてもrepresentという言葉に対して、外的な、代表的な、意図的な表象という意味合いが強くなってしまい、それを使うのは憚られるのだろうか。presentという方が、「表現されている」と意味合いを端的に伝えられるので、適切だと考えられてるのかもしれない。

女性に見える人、男性に見える人、というのは、社会的構築された女性性/男性性を表象する人という意味になる。そこに主体の「自認」は関係なくなる。あくまで視覚的(あるいは、聴覚的)情報に基づいた、他者による主観的な判断ということだ。そういう意味では、シスジェンダーも当然、女性表象であり男性表象である。それ自体間違ってないのかもしれない。しかしますます、なぜ英語ではpresentingなのだろうと不思議に思うばかりだ。