※今年のお正月に起こった地震のことについて触れていますが、過度にセンシティブな内容は出てこないので、安心してお読みください。その辺りの表現に弱い方は、念のためご留意ください。
むしろ、甚大な被害状況とかの記述を求めている方にとっては肩透かしを食らうかもしれません。被害状況は人それぞれですし、あくまでも、私が当時を地元(金沢中心)で過ごした際の所感だとお考えいただければ。
1月1日(日) 朝〜昼
いつもと何ら変わらないお正月だった。
朝8時くらいに起きて、おせちやお雑煮を食べて、弟にお年玉をあげて。(先月入籍したばかりの)夫も出資してくれたからお年玉値上がりしたのに今年から社会人だね残念だね、なんてことも言っていた。
その後は、能登の志賀町にある父方の祖父母宅に、新年の挨拶に出かけた。祖父の認知症の進行や祖母の腰の悪化で家の中が以前よりも若干荒れており、少しだけ心の奥がチクっとした。祖父母宅を出た後も近所の親戚宅を回って談笑するなどしていた。
この時点でいつもと違った点を挙げるなら、初詣に行かなかったことだろうか。例年は、祖父母宅を訪れた帰りに妙成寺か気多大社(どちらも能登では大きい方の寺社)に立ち寄って初詣をしていたが、次の日から夫が金沢に合流するため、それ以降の日程で別のところに行こう、という話になっていたからだ。夫も来るはずだったし、初詣にも行くはずだった。
金沢の実家に戻ってきたのは、14時〜15時くらいだったと記憶している。
1月1日(月) 夕方
リビングのこたつでノートPCを点けながらも「あー、note書かなきゃなー、でも眠いなー」とぬくぬくしていると、突然スマホから緊急地震速報の警告音と揺れ。この時点では、正直に申し上げると「おっ、またか」程度の感じ方だった。能登の方では以前から地震がちょくちょく起こっていたし、私が関東に引っ越してからも「いま揺れたよね」と感じることは結構あったからだ。
揺れが収まった後、いつもの癖でとりあえずNHKをつける(今思えば、この判断は正しかったかもしれない)。能登は震度5弱かー、結構揺れたなー、と思いながらXの身内アカで「私は無事だよー」というポストをした直後、テレビの画面が再び緊急地震速報に変わったと同時に、聞こえてくるアナウンスも一段と張り詰めた。
「震度7…?」と、この地域では到底見ない数字に唖然としたのも束の間、感じたことのない大きな揺れがドッと来た。慌ててこたつに潜る。1分近く揺れていたのだろうが、人生で1番長く感じた1分だった。壁にかけられていた飾りが落ちる音も揺れの中で聞こえたし、縦揺れで若干気持ち悪さもあった。「私、死ぬんか…?」と、割と本気で生命の危機も感じた。
2回目の揺れから生還して(大袈裟に書くなと怒られるかもしれないが、当時は本当にそんな心境だった)こたつから這い出た。心臓のバクバクがずっと止まらない。我が家と周辺地域は恐らく大丈夫だろうが、落ち着かない。とりあえず、さっと自室に行ってスマホの充電器をポケットに入れる。情報(スマホ)があれば何とかなるやろ的な発想だったが、内心は不安だらけだった。
実家の内外で各々過ごしていた家族は無事だったが、地震発生時にたまたま玄関の扉を開け放していたせいで、胡鉄(実家の愛猫)がパニックでどこかに逃げてしまったらしい。テレビからは「津波」という言葉や、「今すぐ逃げてください!!!!」と恐怖すら覚えるアナウンスばかり。そして最大震度7を記録したのは、私が昼過ぎまで訪れていた志賀町。心臓の鼓動が収まらない中、Xでひたすら呟いて少しでも気を休めようと必死だった(心配してくださった皆さん、本当にありがとう)。
1月1日(月) 夕方〜夜
母方の祖母から、「玄関の天井が落ちた。あと、食器棚とか色々かちゃかちゃ(≒ぐちゃぐちゃ)になってるから片付け手伝って」との電話。祖父母宅は実家の近所のため、母・弟・私の3人で向かう。
祖父母宅に着くと、祖母の言葉通り、玄関部の天井が落ちていた。1階は祖父母が既に片付けを進めていたため思ったよりも綺麗になっていたが、2階では、本が落ちていたり写真立てが割れたりなどしていた。掃除を行なっていると、父から「(父方の)祖父母、無事」との連絡。この時点では被害状況が不明だったが、ひとまず安心した。
片付けの手伝いから帰宅後、NHKで地震のニュースを見ながらお通夜のような雰囲気の夕食。時々知っている場所が出てきたりもして、その度に心が痛んだ。夕食が済んでからも、SNSで地震の被害状況についてチェックすることがやめられない。自分のSAN値がゴリゴリ削られてく実感があるにも関わらず。とんでもないお正月になってしまったなぁ、とずっと心が沈んでいた。
唯一良かったことは、地震発生時にパニックで逃げ出した胡鉄が、20時過ぎに自力で家に帰ってきたことだろうか。本当に良かった…。
これは余談だが、この日の胡鉄はいつも以上に膝の上から退いてくれなかったし、この晩を境に私の部屋のベッドで寝るようになった。可愛いやつめ。
1月2日(火)
朝、夫から「北陸新幹線まだ止まってる。行けそうにないわ」との連絡。実際は午後から運転再開されたのだが、余震などの影響も鑑みての判断だった。
この日は夫が金沢に来て、母方の親戚一同との顔合わせ兼新年会が行われる予定だったが、まさかの主役不在という事態に。しかし、それ以外の親戚はそこまで大きな被害は無かったため、(公務で駆り出された伯父を除いて)新年会自体は行われた。
地震発生から一晩明けたが、金沢でも震度2〜3程度の小さな揺れが何回か起きた。志賀町の祖父母曰く、電気は付くが水道が止まっているとのこと。また、金沢〜能登半島を繋ぐ「のと里山海道(いわゆる縦貫道路)」がところどころ割れているらしい。それに、実家のそう遠くないところで土砂崩れが起き、NHKの全国ニュースでも(多分)放送された。
いつもの「日常」が、決して大きくではないが、確実にいつもと違ったものになっている。そんな実感があった。
1月3日(水)
余震はこの日も何回かあった。
また、散歩がてら、土砂崩れが起こった場所を見に行った。安全上の理由で遠くからしか見ることが出来なかったが、それでも軽く戦慄した。テレビで見るのと肉眼で見るのとでは、やはり衝撃度が違う。いつか家を買う際は、地盤がしっかりしたところを選ぼう、と強く心に誓った。
地震発生時から少しずつ撮っていた写真を現像し、身内限定の公開にはなるがフォトブックの形に出来そうだと感じた。
この時の記録は、何があっても残さねば。
1月4日(木)
この日も2回くらい小さな揺れがあった。
また、午前中に家族が志賀町の祖父母宅へ様子を見に行ったとのこと(私は体調不良で行けなかった)。道路は祖父母宅へ向かうには一応無事だった(被害が大きいエリアはもっと北なので)し、祖父母宅も「思ったよりは」大丈夫だったらしい。断水はまだ続いているみたいだが。
次の日に飛行機で関東に戻る予定だが、羽田空港での例の航空事故を受けてか、乗る予定だった便が欠航となっていた。新幹線を取り直したため事なきを得たが、地震に加えて痛ましい事故が続いており、精神衛生上よろしくない。
とりあえず、平穏な日々を過ごしたい。
今回の件で考えたこと
これまでに書いた通り、私も周りの人々も生命に別状なく、被害も(父方の祖父母中心に)多少はあったものの、各所で報じられているほど大きなものではありませんでした。
ですが、震災発生以降、「元日に能登から戻ってくるのがもっと遅かったら」、「夫がもっと早く金沢に来ていて同じような目に遭っていたら」、「そもそも私が帰省しなかったら」などの “if” をつい考えてしまうようになりました。その度に、このような天災による被害の程度は「偶然」によっても定められてしまうのだと、この世の非情さと痛ましさを実感するばかりです。
地震や津波による被害のおぞましさなどは私には到底語れませんが、「被災する」という “if” ルートにほんの少し掠ったことによって、天災への備えは日本のどこに住んでいても行うべきだし、その際の行動などについても、家族や大切なパートナーなどと話し合う機会を是非設けるべきだと、改めて深く考えました。
最後になりましたが、今回の震災で被害に遭われたすべての方々に心よりお見舞い申し上げると共に、今後の復興を強く祈念しております。