生きているのはまったくの偶然でなったのだわ。私の意志は拘わっていない。私が気づいたらこの場所にいたのだ。死ぬのは自由だ。私の自由意志で死ねるのだわ。人間には自分で自分の生を断つ権利ぐらいある。死刑のように他人の生命を断つ権利は誰にもないけれど。私はいつだって思ってる。今自殺しないで、後で死なないでよかったと思う時など来やしないと。断じて来ない。それなのになぜ生きているのだろう
何になりたいとか言ってもみんな終局的には死体になるのでしょう。だからシタイことしてシタイになる
今年中に私を死なせて! 新しい服もヨーロッパの素敵な男の子も私の小説や詩の出版も何も望まない。ただ私に私の肉体の死。私の心の死、私の顔の死をあたえて下さい。完全にこの世から消して欲しいの。私はそれ以外何も望まない。お願いだから私の望みを聞きとどけて。どんな死でもいい、ただ心ばかりじゃなく身体もこの世から消えること、すべての死を。どんな形でもいい。自殺でも病死でも、ただ死なせて!
私はViviのなぐり書きをきちんと書いて来た。もはや十六、七の時とは違い、決して私を生には導かないこのノートを。…(略)…今日の祝福を構成しているのは、明日の否定と今日への呪い。そしてこの地獄には、私以外の何もない。私が否定した私と仮装した私。この異色のハーモニーは、もっと強烈な音色を奏でることもできたろう。来春はもうすぐだ。Viviは死んだ。私は生きてはならない。Viviを殺した時私も死ぬ。私は行為者で、Viviは観客だった。真の私を知っている、唯一の価値のある観客だったが、この対峙も終わるのだ
群ようこ『「廣津里香」という生き方』より
少し前に読んだ『忘れながら生きる』という読書日記で、群さんが廣津里香さんの本から引用した文章である。具体的にどの本からの引用なのかはわからない。『死が美しいなんてだれが言った』『蝶への変身』『私は優雅な叛逆者』のいずれかから抜粋された文章だと思われる。
印象としては「昭和の二階堂奥歯」といった感じだろうか。廣津さんの方が早く生まれているから二階堂さんが「平成の廣津里香」になるのか? どちらにせよ美しいものが好きで鋭い感性を持っているという部分が共通している。若くして自ら死を選び、その後で世間に名前を知られるようになった。もちろん外側から見たらそうだというだけで内面までが似ているとは思わないし、彼女達は全く別の人間であると思う。
彼女の本を読んでみたいのだけど手に入れるのは難しそう。Amazonには在庫がなかったし……図書館にあるかな? 今後、読む機会に恵まれないかもしれないのでとりあえず書き留めておく。