面白い本や映画は自分で見つける。情報が溢れている現代では(このエッセイの中では大学生の若者が)、誰かが良いと発信した作品を選ぶという人がほとんどらしい。何故なら、お金や時間を無駄にしたくないから(余談だが作品鑑賞に置いてコスパとかタイパとかいう言葉を使われると萎える。映画を倍速で観る人とは仲良くなれそうにない)。それって楽しいのか。新しい作品を知るきっかけとしては良いと思うけど、世間的な評価が高いものしか選ばないというのもどうかと思う。私は書店や図書館で面白そうな本を探すのが好きだ。有名な賞を受賞した作品も読むけれど「私だけに刺さる一冊」を見つけたいと思っている。
私が最初に群ようこさんの本を読んだのは大学生の時だった。何となく自発的に小説を読むようになった時期で、それまでは家にある本か、読書感想文を書くための読書しかしてこなかった。誰かに教えられたのではなく、自分から「面白そう」と思って手に取った初めての本が群さんの『アメリカ居すわり一人旅』というエッセイだった。
当時よく読んでいた村上春樹さんの小説の隣に群さんの本が並んでいて、偶然目に止まった一冊だった。大学で英語を学んでいたこともあり、海外での体験を描いた内容にも興味が湧いた。1970年代の話なのに古めかしい感じがなく、特にドラマティックなことが起こるわけでもないのにめちゃくちゃ面白かった。そこから群さんがエッセイだけでなく小説も書いていることを知り、今に至るまで彼女の作品を読み続けている。
あの一冊に出会わなければ、私はエッセイというものにそれほど関心を持たないまま、小説だけしか読まない大人になっていたと思う。高校生の時、友人に「面白いよ」と薦められ、さくらももこさんのエッセイを読んだ。その後、図書館に置いてあった彼女のエッセイを全部読みたくなるくらいに面白かった(中でも『焼きそばうえだ』のくだらなさは今も記憶に残っている)。しかし、『ちびまる子ちゃん』を描いているさくらももこだから面白いのだろうと思っていた。普通の、と言うのは少し語弊があるけれど、それは他の作家が書いたエッセイを読むきっかけにはならなかった。
「自分で見つけた」という感覚は思ったよりも深く記憶に残るものだ。そこから読書の幅が広がることもあるし、好きな作家や作品が増えることは純粋に嬉しい。群さんは自分の作家としての立ち位置を「すきま産業」とおっしゃっているけれど、そのすきま産業の部分に私がぴったりとハマったわけだ。彼女の作品なら全部が全部面白いとか、そういう盲目的な感じではなく、何となくこの先もずっと読み続けるんだろうなぁという予感がある。とにかく、群さんの文章は長時間読んでも疲れない。内容が面白くても読むのが疲れる作品はたまにあるので、気楽に何か読みたい時は彼女の本がちょうどいいのだ。
思ったより長い文章になってしまいましたが、私が「群さんらしいな〜」と思った部分の引用を最後に載せておきます。私もこういうマインドで文章を書いていこうと思います。
たとえば十人が面白いといったとしても、一人がつまらなかったといったら、その一人にいわれたことをずーっと気にし続けるタイプの人がいるけれど、私はそうではない。つまらないという感想については、とりあえず、それは申し訳ないとか、それは仕方ないなどと、ひとりごとをいってすぐに忘れた。感想にもならない罵詈雑言を書いてくる人には、
(うるせえな)である。
いちいち気にしていたら何も書けない。
群ようこ『こんな感じで書いてます』「書き続けるために」より