持続的に喪失し、摩耗していくだけが人生なのだから、そこから過去一〇年を切り取ろうが四五年まとめて削除しようが、何の関係もない。絶えず消し去られ、チョーク跡しか残らない黒板みたいなものが人生なのは変わらないし、いまになって鉄板みたいに面の皮を厚くして、天寿を全うしようなどとも思わない。
わざわざ味わってみなくても、口の中に広がる甘み、えがらっぽいほど甘くてどろりとしたネクターのにおいこそ、心臓に閉じ込められた秘密の本質だ。梢の先でよく見えないが、いつのまにか新たに芽生えている、若葉のような心の。
甘く、爽やかで、柔らかな頃を忘れたその茶色い塊を捨てるため、爪角は生ゴミ用の袋を開く。一番いい季節に誰かの口を一杯に満たすべきだったのにそれが叶わず、今は鼻を刺すような死臭を漂わせている塊へと手を伸ばす。…(略)…彼女は鼻の奥にもぐりこんでくる、やや酸味の強いにおいを嗅ぎながら、ふと涙を落とす。まもなく肩が震え、うめき声が漏れ、すると無用が近づいてきて、低くつぶやくように吠え始める。
ク・ビョンモ『破果』より
爪角(チョガク)は主人公(コードネームみたいなもの)、無用(ムヨン)は彼女が飼っている犬の名前。タイトルの『破果』は「傷んでしまった果実」と「女性の年齢の一六歳」という二つの意味がある。
すごく面白かったです。読むのに時間がかかるかなと思ってたけど二日くらいで一気に読んでしまった。女性の殺し屋、しかも六五歳で現役ということで、シンプルに毒殺か遠距離からの射撃とかそういうのかと思っていたら、しっかり近接格闘もできるプロだった。何か胸熱。韓国では実写映画化したら誰が爪角を演じるのかと盛り上がっていたそう。確かに映画化されたら絶対観たいよなぁ。
この小説の主人公はかなり特殊な人物ではあるけれど、誰もが老いからは逃れられないし、ある程度は覚悟していたものの、実際に経験すると受け入れ難い現実といつかは向き合わなければならない。あとは失っていくだけの人生だったとしても、この小説で描かれたラストは決して悪くなかった。
トゥ(爪角の同業者で因縁の相手)に彼女がの言葉が届いているといいな。爪角に対しての行いは褒められたものじゃないけれど、彼にとって彼女は間違いなく特別だったのだ。何十年も執着してしまうほど。憧れのような親しみのような恋心のような、あるいはそのどれでもない複雑な何か。やっぱり憎しみも多少はあったのかも。安易にネタバレしたくないので具体的には書きませんが、この二人の関係がとても興味深かったです。