すくうということ(note再録)

amane
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推しの言葉に救われている。これは確かなこと。彼が「生きるのは美しいことだ」と言ったから、私は命を投げ出さずにこの世に留まっているし、彼が「君たちには幸せになるだけの価値がある」と言ったから、私は幸せになるために藻掻いている。

でも、救う、という行為は、たいそう無責任なことだと思う。暗いところに沈んでいる人間を、眩しさで目が眩むほどに明るい場所に引きずり出しておいて、後は自分で生きろと言う。希望を見せるだけ見せておいて、掴み取るのは自分だと言う。

「救う」ということは「掬う」ということだと思う。暗い場所で泥のようになって輪郭を保てなくなった存在に、輪郭を与えて、そして明るいところへ掬い上げる行為だと思う。

ただ、大抵「救う」と表現される行為は、そこまででおしまいである。救ったあとの、救われた人間の面倒を見ることなど、大抵のヒーロー漫画では描かれない。

だから私は、人に「生きろ」と言えない。「生きていればいい事がある」なんて言うのは簡単だけど、人生から悲しい出来事を取り除くことなんて出来ない。たとえ楽しいことがたくさんあったとしても、ほんの少しの悲しいことにばかり目を向けてしまう人の気持ちが、私にはよく分かるから。

「生きろ」といって希望を与えるのも、無責任な事だと思う。結局、その人の人生に責任を取れるのは、その人自身だけだからだ。希望を与えておいて、そこから先に進むのは自分で進んでね、なんて、そんな無責任なことは出来ない。

だから、私は「寂しいな」「また会って話そうよ」と言う。できるだけ具体的に。何日後、何曜日、何時に、何処で、そう決める。その人が人生を辞めてしまうのを、少しだけ先延ばしにするために。

私は、人生とは、終着点を先延ばしにして生きていくものだと思っている。見たいアニメがあるから死なないでおこう、推しのライブがあるから死なないでおこう、今度友達と会うから死なないでおこう。

そんな先延ばしの積み重ねで、約二十年の人生を生き永らえてきた気がする。

死ぬのはいつだって出来るけど、死んでからじゃアニメを見ることは出来ないし、ライブにも行けないし、友達とも話せないから。

他者に「幸せになってほしい」「生きてほしい」と願うことが、どれほど身勝手な願いか、私は多少、理解している。でも、誰かの幸せを願うことしか、私には出来ない気がする。私が誰かの人生に干渉した瞬間に、私にも責任が生じるからだ。誰かの人生の責任を負うには、私はあまりにも小さく、あまりにも非力で、あまりにも臆病なのだ。

でも、他者の幸せを願うことで、自己の非力さを贖いたいと思う。愚かだとは思うけれど、愚かさも人間の誇るべき在り方だろう。少なくとも私はそう信じたい。

人生という、途方もない道のりを眺めながら思う。「生きたい」と能動的に生きることは、必ずしも必要ない。死ぬことには能動的な行動が必要だが、生きることには受動的な行動だけで事足りる。最低限の食事、睡眠、それだけで生命は維持できる。

生きることが下手くそな私には、何事に取り組むにも気持ちの波が存在する。誰かと関わりたいと思う時と、誰とも関わりたくないと思う時がある。そんな自分の欠点も、そのような個性だと思いたい。人生という道のりを、全速力で走って、疲れたら立ち止まる。そんな生き方が出来るようになればいいと思う。

とはいえ、社会は人々に、日々一定のペースで歩むように強制する。少なくとも私はそんなふうに感じている。平日は毎日学校や会社に行くこと、休日は友人と遊んだり家で過ごしたり好きなことをして過ごすこと。そうやって三百六十五日が社会によって規定されているような気がする。私みたいに、「今!めちゃくちゃなにかしたい!」「今月はもう何もしたくない」と、走ったり止まったりを繰り返すことは、この社会では難しい。暗黙の了解として、遅くても速くても、毎日進むことで、社会に承認され、社会のなかで生きていくことができる。

では、身の内に「巣食う」荒波を、どうやって鎮めればいいのだろうか。もしくは荒波を乗りこなす術があるのだろうか。

ただ生きるということと、良く生きる(もしくは理想的に生きる)ということは、本質から違うのではないか。受動的な生と、能動的な生。きっと私は、その二つの生き方の間を右往左往しているのだと思う。エネルギーの配分が下手なのだと思う。勢いだけでものごとに取り組むのは、私の長所でもあり、欠点でもある。

これから先の人生を見つめ直す。ありとあらゆるものが次々と移り変わるこの世の中で、確固たるものは存在しえない。それは、自分自身に関してもそうなんだと思う。人生を歩くガイドマップなんて存在しない。だからこそ。まだ死なないでおくか、そう思いながら生きられることの幸せを、享受したいと思う。