希死念慮(note再録)

amane
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希死念慮:死にたいと願うこと。具体的な理由はないが漠然と死を願う状態。

コトバンクより

そういう日

しにたいと思う日が、たくさんある。明確な理由がある日も、理由もないのになんとなくそう思う日もある。

今日は理由がある日だ。親と喧嘩した。喧嘩したことそのものよりも、親と喧嘩した自分が許せない。「誰かをしあわせにしたい」と願いながらも、自分に一番近い人のことを幸せにできない己の未熟さが許せない。誰に対しても寛容でありたいのに、「外でたくさん我慢しているのだから、家でくらいわがままを言ってもいいだろう」と甘えてしまう自分の幼さが許せない。

八方美人すぎるのだ。みんなに好かれたくて、だれにも嫌われたくなくて。気づいたら誰にも本音を言えなくなっていた。都合のいいように扱われるようになった気もする。

理由がほしい

「しにたい」と思うのに合理的な理由が欲しい。誰もが納得する理由が欲しい。例えばそれは心の病気かもしれない。病名がつけば、この希死念慮も、社会に適合しようとしているのにどうしても拭えない違和感と苦しさにも、合理的な理由がつく気がする。だって、私がただの健常者だとしたら、私がしにたいと思うのも社会に適合できないのも、すべて「私」のせいになる。私は、病気に責任転嫁をしたいのだと思う。

もちろん、そういった病気で実際に苦しんでいる人を羨んだり軽んじたりするつもりはない。不快にさせてしまったら申し訳ない。でも、これはほんとうの気持ちだ。私はずっと、この生きづらさに理由があることを望んでいる。

なにがほしい?

本人の苦しみは、本人にしか理解できないものだ。だのに、軽々しく「わかるよ」などと言われるのもなんだか癪だ。あなたに私の葛藤の何がわかるというのか。

けれど、理解しようとされないのも嫌だ。人間が他人を100%理解することはできないけれど、少なくとも歩み寄ってほしいとおもう。わがままだ。

かといって、誰かと比べられるのも癪に障る。「あの子はあなたより頑張ってるけど平気そうじゃない」だとか「あなたは健康なんだから(生きたくても生きられない人だっているのよ)」だとか、たくさん言われた。私は、「私」として私を見てほしいのに。

生きたいと望んだことなんて一度もなかった!!!!!!私はただ認められたかった!!

「頑張ったね」「頑張ってるね」「生きていていいんだよ」

そう言われたかっただけなのだ。けれど、そう言ってほしいと誰かに吐露したことなんてない。こわいのだ。自分の本音を否定されるのが。自分が信じてやまない価値観を「なんだ、そんなことか」と笑われるのが。

自身の価値観を、誰かに否定されたり嘲られたりしたら、私はきっともう誰にも本音を話せなくなる。だから私は本音を話せない。

ほんとうに臆病だ。私は人間を信じることが出来ない。

むしろ、どうやって他人を信じろというのだろう。自分ですら自分を苦しめているのに。

他人に期待して、期待を裏切られるのが怖い。他人は所詮他人で、私のことを一番に考えてくれる人なんていない。私は私で、他人を優先して、自分は二の次だ。

では、一体誰が私を一番に考えてくれるのだろう。悲しくなってきた。

今日もまた、夜と自身の輪郭の境目が分からなくなるまで物思いにふけるのだろうとおもう。

ここまで乱文を読んでくださり、ありがとうございました。