『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』を読む。
カポーティの『夜の樹』『遠い声 遠い部屋』を読んだのはだいぶ昔のことだけれどたしか好ましい印象を抱いていたのを覚えている。だからここでカポーティの人物描写を見てほえーとなっている。高慢で鼻持ちならない、ときに浅はかにも見える。それでも、というかだからこそだと思うけれどp276の
「ねえ、ジュリアン。なんで何もかもが決まりきったように消えてなくなるのかしらね。人生ってなんでこんなに忌々しく、下らないんでしょうね」
の部分で心臓が揺れて指先まで圧迫し、息が止まってぱたっと本を閉じた。
ちょうど長くなってきた日がとっくに落ちて、でも水平線にはうっすらと熾火みたいに今日の残りがくすぶっていて、風もなく静かだった。夢中になっていたから手元の電気以外をつけることに思い至らなくて部屋は真っ暗、そのセリフとわたしだけが取り残された。
もういちど『夜の樹』とか『遠い声 遠い部屋』を読みたいな。今読んだらどんなことを感じるのかな。
私が本を速く読めなくてもいいやと思えるようになったのは、フランス語の本はさらにゆっくり、這うようにしか読めない経験を通してだった。ひとつの文章を2回も3回も読み直してもわからなくて、それでもだましだまし進んだのちようやくさっきの文章の意味がわかったり、間違いに気づいたりした。子どもの頃に戻ったみたいだなあと思った。分からない言葉があってもかじりつくように読んで一冊読み終えると大きな達成感があったことを思い出す。同じ本を何度も読むうちに過去の自分の読み違いに気づいたり、感覚をつかめないでいた単語がすでに知ったものとなっていて自分が大きくなったんだと感じたりもした。
フランス語は単語ひとつとっても感覚的に像が結ばないことがある。まだその単語に多く当たった経験がないから。子どもと同じだ。その単語に出会う経験を重ねるほどにあちこちの角度から「こんなかんじ」が焦点を結んで意味をなしてゆく。きっと日本語の単語もこんな風に人によって抱いている景色がそれぞれなんだろうと思った。それならば、言葉だけでお互い理解し合うことの難しさは果てしないなとも思う。
『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』あとがきをのぞいて読了。
まだページが残っているから油断していたけれど、あっけなく去っていってしまった。
歯切れが良く辛辣でありながら、人間の複雑さがよく観察されているという意味で愛情深い文章だなと思った。(それを読んだ後に自分の文章で感想を書くのはなんだかひどく残念な行為のような気がしてしまうが)
ひとりが去ったことを悲しむ間もなくもうひとりもふあっと話から退場してしまったから、おとぎ話から開放されたみたいに、さみしいけれど深い喪失感とは違う。
あとがきまで読了。
いや、見事だった。
最初に種明かしはされているわけなので(本当の意味での種明かしではないが)大幅になにかがひっくり返るわけではないけれど、でも小さく明かされることがあるんじゃないかとどきどきしながら読んでいたが(何を予期しようとしていたのか自分でも分からない)最後まで読んでみるとひとりの人生を辿った時間がそこにあった。
誰かの一生をこんなふうになぞることってなかなかないんじゃないだろうか。伝記ならあるだろうけど。
あとがきや、参考文献、そして最後のページ、にやりとせずにおれなかった。
読んで良かった本のひとつになった。