19. 物、体、(そして言葉はもっと)

アマヤドリ
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ベルリンでは3ヶ月でバターを8つ(250gのやつ)友だちとふたりで消費した、と話したら美しいバターを買ってくれた。

濃すぎない優しい味の中に複雑さがあっていい。繊細というより柔らか。スーパーの無骨なバターも大好きだけど作るひとの手や過程を想像できるものはいいな。

友人宅の電気工事、やっと(ほぼ)終わった。手はガサガサだけど色んなことを新しく知ることができて楽しかった。左官材の固さを用途別に調整することも覚えたし、壁の掘り方(レンガの時、土壁の時、石壁の時…)、電線の色と役割、どう配線しどう壁に埋めるのか、コンセントと配線を繋いで仕上げるやり方…。今後しばらく機会がないからきっとすぐやり方を忘れてしまうだろうことが残念。体に叩き込めたら忘れないのに。

昔の徒弟制度は現代ではなかなか受け入れられないだろうけど、言葉を介さず見て学んだり、掃除ばかりさせられたりという遠回りとも思えることは、習得におけるある地点の先にひとりで行くために必要な視線を育みもする。もちろん人によって一番力を発揮できるシチュエーションはそれぞれなので人を見て対応は変えるのが良いとは思うけれど。

物を扱うのは踊り以上に結果がダイレクトな形で跳ね返ってくる。観察を怠ることは失敗につながり、すなわち肉体の疲労に繋がり、もし仕事なら経済的損失につながる。実にシンプルで分かりやすい。誤魔化せない。踊りは実は誤魔化せてしまう。体は物体であるし他者でもあるけどやはり「自分」という領域の中から完全に逃れることはできないから。その景色を見ているつもり、体現しているつもりだけで終わることは往々にしてある。対して物は完全な他者だからはっきりと結果を返してくる。結果に対する反省がなければいつまで経っても次に進めない。シンプルに体がしんどい。またはその物自体を損なってしまう。だから考えるようになる。どうしたら体が楽か、どれだけ下準備が大事か、遠回りに思えることが結果的に近道であること、観察の大切さ、辛抱して乗り越えるべきこと、刻々と変わってゆくその物にどう細かく反応していくか、………

そんなすごく基本的なことを改めてなぞりながら手を動かしていた。

間に合うのかひやひやしながらの工事だったが無事に終わりそう。明日この大道具を抱えてまたパリに帰る。