86. 『百年の孤独』がやってきた

アマヤドリ
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公開:2024/8/4

『百年の孤独』を大好きな方がお送りくださって、朝から嬉しい気持ち。友田とん氏の『『百年の孤独』を代わりに読む』もさっそくhontoで買う。このふたつを同時に読みたいと思っていたのだった。読みながら同時に日記を書くんだ。うきうき。夏休みみたい。気持ちだけでもね。

最初の一文を読んでぱたんと本を閉じる。はじめて読んだ時にこんな気持になったっけ、覚えていない。でもなんてわくわくさせてくれる文章なんだろう。

しかし、この夏休み(もう夏休みと呼ぶ)にはフランス語の多読をすることを自分の課題としているので、それと並行して進めないといけない。Twitterを見る時間を読書に当てよう(←いまさら?)。


さて、『百年の孤独』『『百年の孤独』を代わりに読む』を読みながら。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない

自分が初めて氷をみたのはいつで、どんなことを感じただろう。思い出せないのに思い出せるような気がして今回も今自分が知っている氷の感触を頼りに昔を訪ねようとする。初めに読んだ時にもここでまず足を止めて、ふたたび読みはじめるまでにずいぶん時間がかかったことを思い出した。そのあともすぐにマコンドには「名前のないものが山ほどあって」と続くので、やはり遠い記憶である、名付けというものの瞬間をはじめて意識した時のことを思い返すのだった。

目的地へ行こうゆこうとして断念してその土地を家とした、ような場所だけれど小鳥は村の存在を知っていて、その声をたよりに旅人がこの村を見つけるなんて素敵だ。

このところ語り部が出てくる本を多く読んだ。アーシュラ・ル=グウィンの『ギフト』、パトリック・シャモワゾーの『素晴らしきソリボ』、マティアス・エナールの『話してあげて、戦や王さま、象の話を』、バルガス=リョサ『密林の語り部』、マリーズ・コンデ『生命の樹』、ターハル ベン=ジェルーンの『砂の子供』、もしかしたら去年読んだ岡真理の『記憶/物語』から繋がっているかもしれない。ちょうどまさに『素晴らしきソリボ』のソリボのようなカリブ海の語り部と友人になった頃だったので無意識に辿ったのかもしれない。

三上博史といえば(これは『『百年の孤独』を代わりに読む』の方に)、客室乗務員をしていた友人が乗客の中に彼を見つけて、業務の途中に近づく機会があったそうなのだが、その時にリラックスして靴を脱いでいたのだけれどそれで靴下に穴が空いているのを見てしまって幻滅したと言ってた。私は逆にもっと好きになった。うんとおおむかしの話です。