言葉にすることって思考に針を通す作業で

amsz_holidays
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公開:2026/6/17

以下2つをポリシーの一部にしてきた。

①自分の人生を素晴らしいものと思っていること

②他人の輝かしい人生の裏にある努力や困難を慮り、敬意を払うこと

だから、わたしは他人の人生を無闇に羨ましがるのは失礼だと思っていた。

だけれど、今回ばかりは、最近ばかりは喜んで人生に狂うことができる友人が羨ましかった。

自分に酔えなくなった、と大学生のときに飲み会でこぼしたことがある。

高校生のときは気が狂っていたと思う。冷凍の枝豆を教室に持ち込み、大量の枝豆の殻を持ち帰った日はとても満たされていた。

でも受験あたりからか、コロナ禍からか、明確に生活が変わり始めた。

その行動の意味や、労力、かかる時間をいつも計算に入れるようになった。

目の前のことでいっぱいいっぱいだった。

あまり気乗りしない飲み会にも社交のために顔を出すようになり、明確に自分のやりたいことよりもやらねばならないことや他人からの評価を優先させるようになった。

あのときの酔狂はむしろ高校生特有のものだったのかもしれない。

別に家族に恵まれてたわけでもないんだけど。

勉強さえできれば、テストや偏差値や順位の数字さえあれば一定程度の存在価値が担保されるゆえに、そこまで考える必要がなかった。

好きじゃない絡み方してくる同級生や先生には雑な応対をしていた。

部活も平気で遅刻した。

高校を卒業してしまえば、「お勉強だけできてもね」なんて(主にお勉強をしない人に)言われてしまう。

もともと身の回りの世話を自分でできる方でもなかったが、本当に今は生きるのがつらい。毎日時計を見てしまう。

「こんなに恵まれているのに」と思うし「ここで死ぬもんか」と思う自分もいる。

けど人と話したあとには必ず自分の発した言葉を反芻しては自分で自分を心の中で怒鳴りつけている。

「ごめんなさい」が口癖になる。何もしてないのに。

いつしかそれが友人との会話にも起こるようになって、「この人はこれまでの縁もあって表向き仲良くしてくれているけど、本当は今楽しいのかな?」と思うようになって。

そんなこと思ってる時点で相手には無意識で伝わってしまって楽しくないだろうから、ほんとにお前そういうとこだぞ、と自分にまず思う。

「仕事ができる」の評価のなかに多分に揺らぎがあることも私が不安定になってしまった理由のひとつだろう。

他者からの評価が必須であり、相手の受け取り方、評価軸の違い…

自分が正解だと思う振る舞いは誰かにとっての不正解で、それが自分の評価にとって致命傷になりうる。

信念が、揺らぐとき。

こうして文章を書くことすら、「わたしの心のうちを話すことに何の意味が?」と思うようになってしまった。

だれも聞かない声、だれも理解できない言葉、だれも共感できない内容。

そんな言葉に価値を見出せなくなってしまった。

自分の人生をあえて分解すること、他人が理解できないレベルまで細かく、納得いくまで分解することをいつの間にかやめてしまっていた。

しかし社会人2年目、どうしても倦んでしまった今こうして書いてみている。

言葉にすることが怖く感じた。

怖いのは、自分の人生をあえて分解する行為が、自分の人生をそのまま受け止めることだからだと感じた。

思えば、私は「言霊」や「触らぬ神に祟りなし」「怖い話をしたら幽霊が寄ってくる」を無意識で信じこんでいるタイプなので、あえて積極的には言葉にしてこなかった領域がある。(親が私の部屋を勝手に漁ったりノートを見たりするタイプだったというのもあるが。)

例えば、いやな人への率直な気持ち。言葉にしなければ今のままでいられるから。無意識にストップもかかる。

あとは他人そのものを言語化する行為。(○○の行動が○○だからだろうか、以外の深堀はしてこなかった)相手に思っていることを言語化するのが怖かった。いいことも悪いことも。結局つい綺麗ごとや表面的なことを書いてしまう。

自分の身の上に起こったネガティブな出来事も言葉にしてこなかった。書く過程で思い出したくなかったから。これも表面的なことや事実だけ記載していた。

自分がしてきた一般的に悪いこと、もあまり積極的に書いてこなかった。単純に書く理由がなかったから。

何か社会だとか出来事だとかに対する思考も言語化しなくなった。未熟な自分を表に出したくなかったから。大学で「正しい論理的思考」を学んでから、何を思っても正しいか?という疑念にとらわれるようになったから。

人生のポイントで何かを言葉にしても満たされないと思うようになった理由のもう一つは、人と関わっている時間が増えたから・自分がある程度幸せになって嫌なことを表面的に記載するニーズがなくなったから...の2つがあるのかもしれない。

ただ結局のところ、「今の自分」は「今の自分」以上の器にはなることができない。

今の自分"以下"の器になることはあっても、逆はない。世知辛いけど、そう感じている。

自分の能力やあり方を見つめるためには「今の自分」を知らなくちゃいけない。表面的な自分との会話だけしてきたツケが今回ってきている。

うまい書き方がわからないけど、これまで避けてきたようなことについて書くことも発見になるだろう。自己理解には他者理解が欠かせないし。

申し訳ないけど、親愛なる友人のみんなには私のために養分になってもらおう。

「だれも聞かない声、だれも理解できない言葉、だれも共感できない内容」を少しだけ伝わりやすく、イメージしやすくするように、エピソードなどで肉付けをしていくのが文章を推敲するということなのではないか。

他人の評価を上げるためではないのではないか、ということに今書いていて気が付いた。

自分のために書いているので、ここではやらないけど。

2026年6月