歳が少しだけ離れているけど、いろんなことを一緒に楽しんでくれる友人。どんなに過酷な状況でもたくましく、歓待の心をもって生きているかっこいい友人が、私と肩を並べて歩いてくれているとき。
私の部屋の来客用布団で眠っている友人。あなたは寝ているけど、頭の方向もバラバラだけど、一緒に外のサイレン聴いてるんだと実感するとき。
ゆるいけど古い関係の師匠のような友人に「酒飲む年齢まで一緒にいてくれてありがとう」と何度も伝えるとき。その友人のおかげで今の職があることをふと思い出すとき。
深い関係の友人ではないけれど、意外にも私のこと大好きと言ってくれて、高く評価してくれて背中を押してくれたとき。
複数人全員深い関係ではないからこそ全員集まって居酒屋でダラダラと話しているのが奇跡のようで、有り難さを感じるとき。
私よりひとまわりも歳上なのに友人として仲良くしてくれる友人たち。本人には口が裂けても言えないけど、両親代わりのような安らぎを感じる飲みの帰り道。
それぞれの生き方を見せてくれる女の子たち。
私の努力の上限を引き上げてくれた数々の恩師や友人たち。
いつも新しい世界に連れ出そうとしてくれる友人。
メールマガジンに、私のテスト用以外にもうひとつだけ、メールアドレスが登録されているのを発見したとき。
私の人生の幸せな重みを感じる。
こういうことをいっきに思い出せば、顔も知らないはずの愛する人たち同士がわたしの中で交流しているようにも思えて面白い。
人生は愛でできている。
いつも背中を押してくれること、何があっても見守ってくれることほどありがたいものはない。
そう思えなくなる日もある。
愛が見えなくなって、世の中はお金と恥と憎しみと三大欲求でしか(いっぱいあるな)動いているように感じる日もある。
大人になった私は、ここから先は愛はなくてそれらの渦に呑まれて生きていくことになるのかもしれないと、人生が嫌になる日もある。
どんなに仲のいい人であってもどんな関係の人であっても、その好意を疑ってしまう日もある。今大好きな人たちは、私なんかとこの先も一緒にいてくれるのだろうか。わたしにその価値はあるのか。と。
そんな日もあるけど、少なくとも私の人生は誰かから受けとったものへの「ありがとう」の気持ち、つまり愛によって作られていると、やっぱり感じる。
もらったものは贈り返すだけだ。
ここからの話は決して一般論ではない。個人的な人生の話である。
いつかの私は、「愛とは覚悟だ」と定義したが、あまりに雑だったなと思う。
いまの考えでは、自分にとっては
「愛」は「人生尽くしての感謝の感情」で、
「愛を伝えること」は「覚悟の表明」である。
「自分の中に他者への愛を感じる条件」は「その人との時間によって今の私の好きな部分が形作られている/維持されている」と実感するときである。
「愛する人たちと時間を共にする」ことは「どんなときでも自分に立ち帰らせてくれる魔法」である。なればこそ長い人生で、とても大事だ。
だから、新しく愛を構築していくには私は私であり続けなければいけない。そういう意味で、愛するには立ち続ける強さが要ると思う。
ただそうなると、「愛される」は「私に人生尽くして感謝を伝えてくれる人がいる」ということにらなるのだろうか。
思いあたりはするけど、一般的な「愛されることの喜び」が即座に連想されるような定義ではなさそう。
「愛すること」と「愛を持って接すること」はイコールではないのかもしれない。
私はちゃんと愛している人たちに愛を持って接しているだろうか?
繰り返すけど、ここまでの話は一般論ではない。あくまで個人的なことだ。
愛と近い概念として、「母性」がある。
先の私の話によるならば、母親は子供に対して「ありがとう」と思っているのだろうか。何に対して?いつかわかるのかな。
(愛とボウルビィのいう愛着は明確に違う概念だと思っているからここでは愛着の話はしない)
ほんとうに、私個人の話でしかない。そうじゃなさそうな人たちもたくさん見てきたし、そう思える余裕のない境遇もたくさん見てきた。
これから先はわからない。私もお金の世界に揉まれている。
そんな世界で、どう生きるのか。
愛を見失わないために。新しく愛を育むために。今ある愛を手放さないために、どう胸を張って生きるのか。