イエと戦い続けた男『悪魔が来りて笛を吹く/横溝正史』

amy
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※2022年10月にnoteに公開していた記事を加筆、修正してサルベージしました。

横溝正史とはこんなに時代の先を見ていた作家だったのか。正直なところ横溝正史の作品をじっくりと読んだのは初めてだった。

よくありがちな映像化された作品は観てきたけれど原作にはあたらないというムーブばかりしていたのである

今回読むきっかけになったのは9月4日にNHKで『シリーズ深読み読書会/悪魔が来りて笛を吹く』が再放送されたからだ

横溝正史は『八つ墓村』『犬神家の一族』『本陣殺人事件』など田舎の因習ものという作品を立て続けに発表し、その後で都会の貴族ものである『悪魔が来りて笛を吹く』を書いたのだと番組内で言っていた

そういうわけで私はこの番組を見て、いわゆるネタバレを受けた状態で『悪魔が来りて笛を吹く』を読むことにした。それぐらい引力が強い作品だった

これは結末を言ってしまえば愛した女性と自分が異母兄妹だったことが発覚し、女性が自殺したことがきっかけでその原因となった自分たちの父親を含む一族を殺害した青年が最終的に自殺をする

近親相姦によって生まれた子どもたちが、そのことを知らず惹かれ合った自分たちも近親相姦をしてしまったというやるせない悲劇の話だ

番組ではこの作品を深読みし、横溝正史はこの時代にこの作品によって何を言いたかったのか、隠されたメッセージは?という深読みをしていくのがNHKの番組の内容だった

近親相姦はめずらしいことではない。日本でも繰り返されてきた歴史もある。天皇家でも行われてきたことだ。じゃあ近親相姦が生まれる土壌とは何か?というと家父長制だと言う。家という形、共同体を何がなんでも守るため、そこに外部の血を入れないという排他的な思想が近親相姦の土壌だと有識者たちは語っていた

これっていま話題の共同親権に近いと思いません?血の繋がらないステップファミリーを粉砕して、血縁こそが正しい形であることを押し進めている

それを考えると確かに横溝正史の作品はいわゆる『家』というものにフォーカスした話が多い

『悪魔が来りて笛を吹く』は舞台は都会で貴族の話だけれど、『八つ墓村』『犬神家の一族』なんかは田舎だけど確かに一族や〇〇家の話という点は共通している

そしていずれも悲劇の発端はその家の家長である人間の身勝手な振る舞いである

そもそもこいつらが何もやらなければ、何も悲劇は起こらなかった。そういう話が本当に多いなと気づかされた

作家の島田雅彦氏は「日本の小説は家庭小説が多い。家庭とは、家とは、暖かく優しい場所ではなく逃れようのない地獄であり、そこで苦しむ人達がいるからこそ家庭小説が多く生まれている」ということを言っていた

家長の、父親の存在によって地獄にも天国にもなる。そんな表裏一体で薄氷の上にあるのが「家」であり「家族」なのだ

横溝正史にも母親の違う兄弟がたくさんいた。きっとその家長である父の振る舞いで苦しい思いをした人間の存在をたくさん見てきたのだ

それで腑に落ちる。ずっと横溝正史は家(家族、家父長制)と戦う小説を書いてきたのかと

令和の今でも残念ながら家父長制から解放されたとは言いづらい状況だと思う。少なくとも私はそう感じている

家父長制を倒さねば、戦わねばという志を持った男性作家があの時代にすでにいたのだとすればこれほど心強いことはない。もっともこれは

今回の『悪魔が来りて笛を吹く』で一番好きな台詞を引用してみる

金田一耕助に調査を依頼したストーリーの起点、この作品のヒロインである椿美禰子(みねこ)のこの台詞だ

この家はできるだけはやく処分しましょう。そして、あたしたち、どんなにせまい家でもよいから、明るい、よく陽の当たる場所に住んで、身にしみこんだこの暗いかげを洗いおとしましょうねえ

戦後没落していく貴族。近親相姦が原因の殺人事件が起こったあとに残されたその家の当主が若い女性で、その女性にこんな台詞を言わせるのは横溝正史が家と戦ってきたということを踏まえると非常に示唆に富むと私は思う

まさか横溝正史を家父長制批判をした作家だという視点を得ることになるとは思わなかったけれど彼や彼の作品に対する見方がガラリと変わった

横溝正史はおどろおどろしい因習モノを書いた作家。ではなく、家父長制批判を書いた作家だとすれば、彼が作中で描いた悲劇や苦しみが今もまさにあることがわかる

@amy
リプトンより日東紅茶派。Twitter→@note1581 Bluesky→bsky.app/profile/amy1581.bsky.social Wavebox→wavebox.me/wave/4pcj26ik98hvnx73