なんっっっっっっっっっで怖い話にでてくるのてだいたい女の幽霊やねーん!と思っていて、そのへんを語った本はないだろうかと探したら、この本にたどり着いた。これは、フェミニズムの本だと思う。こういった視点からホラーを見つめる人がいることはすごく貴重だ。
カシマさん、口裂け女、テケテケ、八尺様、アクロバティックサラサラ。現代怪談に姿・形を変えながら綿々と現れ続ける「赤い女」とそのルーツを現代人の恐怖の源泉は何なのかを見つめることで、そこに含まれる社会の変化や構造などの現代史も踏まえてたどっていく本。
いやー、めちゃめちゃおもしろかった。現代怪談に現れ、人々のなかにある恐怖のイメージとして確実に立ち上ってくる「赤い女」。その赤い女とは「子殺しの母」ではないかということを吉田氏はこの本で語る。
子どもを亡くした母である「産女(姑獲鳥)」からはじまり、それが子どもというものが貴重な存在になるにつれて、堕胎が合法になるにつれて、子どもを殺す母親(母性)というものへの恐怖が膨れ上れあがり、それが「赤い女」となって怪談に表れるのではないか。
社会構造の変化や子どもという存在が多産多死からどんどん貴重な存在になる。それゆえに子どもが殺されることへの恐怖やタブーさが増していったということは、たしかにと納得できるものであった。
おもしろかったのはコトリバコ=コインロッカーベイビー説だった。生まれてすぐの新生児を駅のコインロッカーに遺棄した事件。マスコミは”母性崩壊”だとして騒ぎ立てた。こうした主張を吉田氏は「子育ては母親だけが受け持つべきであり、コインロッカーベイビーの事件はそれを補強するために使われた」としている。そこからさらに”言うまでもなく、「母が一人だけで全身全霊をかけて子育て」する風潮は、日本に連綿と続く伝統的な「家」のあり方ではない。さらに厳密に言えば、明治大正の「近代家族」の状況とも、戦時下に推奨された「産児報国」の状況とも異なる。核家族化する都市サラリーマン階層の増大、子どもへかける教育の過熱かなど、あくまで高度経済成長期に現れた特殊なモデルに過ぎないのだ。”と現代の母親や家族に押しつけられがちなイメージをきっぱりと否定している。
ホラーにでてくる「赤い女」は『子殺しの女」であり、それはいったいどこからくるのかをここまで真摯に掘り下げてる人の存在は、女というだけで勝手に母性という意味不明なものと結び付けられがちな自分としては胸のすく思いだ。
ホラーとは、怖い存在やその対象はいつだって人間がイメージを作る。そしてそれは人間が作る社会に結びつていることは必然だろうし、それはその社会のなかでは否定的に捉えられるもの、良しとされないもの、社会の体勢に反旗を翻すものだ。いつだって社会に迎合しない女は煙たい目で見られる。それを愛好家が盲目にならずに真摯に取り組んでくれることがその分野の醸成に不可欠だと私は思っている。
何を怖い存在として描くかは書き手の意識や思考が浮き彫りになる。そこに無頓着なホラー愛好家や作家が多いことは私は否定できない。それゆえに安易に女や田舎を恐ろしいとものとするのだ。
この本の本当に最後のほうに吉田氏はこう書いている”「母性」の光が強烈であるほど、その影は色濃く伸びる”と。
社会が母親や子育てをする家庭、さらには子どもに要求する水準がどんどん高くなっている。「道路族」「放置子」という言葉はまさにその象徴で子どもを共同体や地域で育てるという意識はどんどん薄れていっていることを挙げ、”もはや現代日本では、限られた人間たちしか子どもを「産めない」のだ。”と結論を出している。
昔は間引きなどもあり、さほど恐怖の対象とされなかった「子殺し」が人にとって最大の恐怖になった経緯を解明し、その恐怖を作る社会というものを批判した本だった。ただ少し物足りないと思ったのは、子ども殺しをすることになってしまう女性の原因のひとつに男性の不在があることをどう捉えているのか、どう影響しているのかも踏まえてくれたら、もっと満足度が高くなっていたと思う