感情と理性

amy
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ちょっと思うことがあり、頭ではわかっているが感情が追いつかないという状態になっている。こういうときに今のTwitterを見るのはよろしくない

すでに感情と理性の腑分けが終わった人、もしくは感情など挟まず自動的に、即座に「はいアウト」「はいOK」と決済印を押した人たちが、ジャンクで手軽で刺激的な言葉をまくしたてているからだ

そしていまだに感情と理性の腑分けができていない人を見ては、さっさと白黒つけろと急かす。きっとこういう人は感情と理性の板挟みになって、喉元を締め付けられたような経験もないし、想像もできないんだと思う。それはある意味とても幸運なことだ。この板挟みは苦しいだけだから

感情と理性。私は両輪のものだと思っている。でも今まで生きてきて、この考えは少数派で、さらにいえば感情よりも理性のほうが価値があるらしい

感情をくだらないものとするのは弱さを嫌う、ウィークネスフォビアともつながってくる。悲しみや怒りや傷ついた経験を「たかがそんなことで」と一蹴してしまう

だからこそ私は理性的”すぎる”人のことを信頼できないし、恐ろしいと思ってしまう。その鋭いカミソリみたいな理性の刃が、いつこちらに向くかわからない。私みたいに感情的で日々ゆらゆら揺らいでいて何かひとつを決断することが難しいような人間は、そのカミソリでバラバラにされてしまうのではないかと思ってしまう

これは、たぶん伝わる人にしか伝わらないけど映画化もされた凪良ゆうさんの「流浪の月」を見たり、読んだりして「グルーミングの話じゃん、きもい」って言うような感想を持ってしまう人とは一生わかりあえないし、相手も私の感覚をわからないと思う

最初にお父さんがいなくなって、次にお母さんもいなくなって、わたしの幸福な日々は終わりを告げた。すこしずつ心が死んでいくわたしに居場所をくれたのが文だった。それがどのような結末を迎えるかも知らないままに――。だから十五年の時を経て彼と再会を果たし、わたしは再び願った。この願いを、きっと誰もが認めないだろう。周囲のひとびとの善意を打ち捨て、あるいは大切なひとさえも傷付けることになるかもしれない。それでも文、わたしはあなたのそばにいたい――。

私は愚かでも、弱っちくても人間には感情があることを忘れないでいたいし、それを忘れたら私は私じゃなくなると思う

@amy
リプトンより日東紅茶派。Twitter→@note1581 Bluesky→bsky.app/profile/amy1581.bsky.social Wavebox→wavebox.me/wave/4pcj26ik98hvnx73